吉川福音教会(BBS)
宋先生の特別賛美!
- 寺田祐一牧師
2009/11/07 (Sat) 13:23:00
昨夜から先ほどまで、Fc2(サイト運営会社)が不通となっていたため、書き込みが出来ませんでした。やっと今、「朝ごとに」のところの書き込みが終わったところです。残念ながら、ここへ書くのは、ちょっと明日の準備もあって、あまり書けません。
明日は、私は川口キリスト教会へ行きますので、こちらへは我孫子聖書キリスト教会の宋均鎬先生がいらっしゃいます。友だちというのはいいもので、必要な時にはいつでも都合をつけて助けてくれます。
宋均鎬先生は明日、説教のあとにもまた特別賛美を捧げてくださいますが、一流の声楽家であったので、私もお聴きしたいのですが、残念ながら聴けませんね。曲目は「讃美歌294(御恵み豊けき主の手に引かれて)」です。
ぜひ、明日の礼拝、午前10時からですが、いらしてみませんか!
私は明日、川口キリスト教会で、「神の国とその義」と題してお話しします。まだ準備が十分出来ていませんので、今悩み中です。
まあ、テーマとしては、私たちの信仰生活において、具体的に「神の国」は何を意味するのか、「その義」とは何なのかと言うことのです。そしてイエス様のご命令は、それを「第一としなさい」と言うものですが、どうすれば第一にしたことになるのかということです。
さて、皆さんはいかがお考えですか。
知りたい方は、明日川口キリスト教会までお出でください。午前10時半からですが、住所や場所など、詳しいことは教会の名前で検索をするとすぐに出て来ます。
こちらの方もお待ちしています。
さて、ではこれからこころ静かにして準備します。
ああ、昨日の区域ですが、美味しい野菜炒め、濃厚なスープ、青首大根と豚のバラ肉を時間をかけてたいたもの、そして若鶏の醤油煮でした!
やはり食べ過ぎて、その日はそれ一食、今やっとお腹が落ちつて来たほどです。
残ったものを少しいただきましょうか。
では明日、お待ちしていますよ!
FridayNight
- 寺田祐一牧師
2009/11/06 (Fri) 20:58:44
今日は区域のあと、ちょっと出かけて、少し疲れてしまい、休んでしまいました。
今、9時からのFridayNightのために、やっと出て来たところです。このFridayNight、ここ何年かはほとんど一人なのですが、今日は、今来て見ると、一人、すでにいらして待っていました。それで、これから久しぶりに賛美をして始めるところです。
今日はあまり書けませんでしたが、これで失礼しましょう。
いつも朝でお早うございますですが、今は「お休みなさい」ですね。
美味しいキムチチゲ - 寺田祐一牧師
2009/11/05 (Thu) 10:04:14
昨日の区域では、今早天礼拝で読んでいるコリント人への手紙第一の8章から、私たちの教会の今後の教会形成について話しました。そろそろ、パウロが言うように、幼子から子どもぐらいまでは生長しなければならないと祈っていたからです。コリント人への手紙第一は、まさにそれにふさわしい、実に面白い手紙でした。「朝ごとに」のところへ簡単には書いておきましたので、興味のある方はそちらをご参照ください。
しかし勿論、区域の楽しみはそれだけではありません。いつも食べ物のことばかりですが、昨日もまた秋の味覚満載で、あまりにも美味しくて食べ過ぎ(家内からいつも「あなたは食べ物に意地汚いから注意しなさい。牧師が変だよ」と言われているのですが‥‥ )、少しお腹を壊してしまいました!
そんな忠告、目の前の料理を見たら吹っ飛んでしまいますよね。
里芋の煮っ転がし、お雑煮(すごいでしょう)、鯖の竜田揚げ、一口カツ(これが本当に美味しい)、揚げナスにショウガをすり下ろし醤油をかけたもの、ジャガイモをゆでてくり抜き、マッシュポテトにしたものを詰めた上にチーズをのせ、オーブンで焼いたもの(ベイクド・ポテトかな)、手作りサンドウィッチ、なんとチジミまで‥‥ 、これではお腹を壊さないほうがおかしい。今時代、確かに贅沢に感じるかも知れませんが、そんなに高い材料ではなく、すべて手作り、むしろ心づくしの心休まる時なのです。
教会に集まって作り、一緒に食べる、ヨハネに言わせると、なんと麗しいことでしょうか。
そのほか、実は私が、火曜日にいただいたキムチで作ったキムチチゲがありました。このキムチチゲ、自分で言うのもなんですが、実に美味しいのです!
実は、前日の火曜日、東江さんによると複雑の文化の日だそうですが、北赤羽キリスト教会のばバザーへ、教会の三人でおじゃましたのです。北赤羽キリスト教会は、うちの教会と同様、そんなに大きな教会ではありませんが、地域に根差した、とても素晴らしいお働きをしています。増田先生ご夫婦、美しいお嬢さんの真喜子先生が一生懸命黄色いユニフォームを着ながら、北赤羽出身の朴先生も手伝いに来ていて、教会員の皆さんとともにご活躍なさっていました。思っていたよりは遙かに賑やかで大きなバザーだったので、ちょっと驚きました。今うちの教会では出来ないことを考えると、なんだか大きなチャレンジを受けて帰って来たのです。応援どころか、忙しい先生たちの邪魔ばかりして来たのですが、逆に色々なものをご馳走になってしまいました。かえって申し訳ない思いでいっぱいでしたが、帰りにはたくさんのお土産までいただいてしまって、その中に手作りキムチがあったのです。実に美味しいキムチで、これでキムチチゲをしたら、何もしなくても美味しいなと直感的に感じて、「よし、明日の区域の皆さんに食べさせよう」と、ただ豚肉と豆腐を入れて煮ただけなのですが、とても美味しいキムチチゲが出来上がったと言うわけです。牧師が作った手前、まずいとは言えなかったかも知れませんが、皆さん完食してくださいました。私ではなく、いただいたキムチが美味しかったからですね!
増田先生、教会員の皆さん、ご苦労さまでした。そしてありがとうございます!
料理は、お金をかけなくても、工夫と愛情次第で本当に美味しいものが出来るはずです。
昨日は、みことばの恵みもたくさんあったのですが、夜の水曜祈祷会に至るまで、そうした食事の喜びで満たされた、とても元気な一日となりました。
寒さにもかかわらずですが、インフルエンザなどに負けている場合ではありません。こんな時代、こんな季節だからこそ、クリスチャンは一緒に集まり、美味しいものを作って食べましょう。
忙しくて大変だから集まれませんと言うのは、少なくとも教会、クリスチャンにとっては本末転倒でしょう。だからこそ、かえって集まり、互いに勇気と力をいただく時なのですから。教会の中でも「あまり無理をしないで」と言われるのですが、いつも残念です。イエス様の教会だからこそ、無理をしてでも集まるところに神様の恵みも祝福もあるのですが‥‥
スープの音 - 寺田祐一牧師
2009/11/04 (Wed) 08:58:23
今日も朝から少し忙しいので長い文章は書けません。
朱基徹記念会の準備、今日の午前中にある区域礼拝、そして夜の水曜祈祷会準備と、なんとなく忙しい一日です。
文化の日に関して、また東江さんからお便りがありましたが、さすがは生活者東江さん、具体的な生活感の中からの鋭いご指摘ですね。確かに日本では、文化イコール西洋、として、かなり一般的にはとらえられて来たでしょうか。勿論よいこともあったでしょうが(インフラ設備、水道、下水システムなどは衛生面に非常に大きな効果があったと思います)、余計な優越感とかぶれを生み出したのも事実でしょう。
私の友人が、ある人に誘われてフランス料理を食べに行きました。特に礼儀作法を心得ている訳ではありませんが、それなりの知識はあって行ったのです。なるべく不作法にならないように、気を使って食べていたそうです(いかにも慣れていて楽しそうに‥‥ )、しかしその時、実に思いがけない注意を受けたのです。「○○さん、スープをいただくときには音を立てないでください」と。勿論そんなことは百も承知で、十分に注しておちょぼ口でいただいていたはずなのに、まるで後ろから頭をガーンと殴られたように、はじめ何を言われているのか分からずぽかーんとしていると、「音を立てないでください」と再び言われたのです。もう頭が真っ白になって、その後どうしたのかまったく覚えていないというのです。あんなに恥ずかしい思いをしたことはなかったと、友人は今思い出しても憎々しい思いがわき上がって来るようでした。
しばらくはフランス料理どころか、すべてにおどおどせざるを得なかったのですが、途中で、そんなことでおびえている自分がなんだか馬鹿馬鹿しくなって、止めたと言うのです。フランス料理を食べるのではなく、いたずらに無意味な習慣にとらわれることをです。
その社会の中で生まれた習慣を、意味もなく守るのがよいのではありません。違う習慣を持つ者は、それを尊敬を持って接すればよいのであって、恐れたり劣等感など持つ必要はさらさらないのです。
スープなど、お蕎麦のようにすすって飲んでもよいのです。日本では。
以来、友人はスープを堂々と音を立てて飲むようになり、ご飯は割り箸で食べています(日本ではその方が美味しいから)。ただ、西ヨーロッパへ行ったり、正式な場所においては、頭が真っ白にならない程度には注意していただいているようです。まあ、いわば「文化」に対して正しく接することが出来るようになったと言うことでしょう。
むしろ友人に注意した人、その人こそ、ちょっと汚い言い方をすれば「文化人面した野蛮人」といったところでしょうか。そう言う人を、誰だったか、「文化人という猿」と言った人がいましたが、はしたないことではありますが、そう言いたくなる時もあります。
まあ、結局文化人にはなれなかった者のひがみから言うのですが‥‥
これなどは可愛い方ですが、実は我がキリスト教界においても、どうも笑えない勘違い文化と言うものもありそうです。
神学を韓国で勉強しましたと言うと、ちょっと薄笑いを浮かべて「そうですか」と慇懃に答えてそれ以上には話は進みません。しかし、アメリカのウェストミンスターで学びました、イギリスの‥‥ 、オランダの‥‥ 、ドイツの‥‥ 、と言うと、途端に声の調子も変わり「へー、そうですか!それで専攻は?先生はどなたですか?」などと、下にも置かない対応になります。まるで水戸黄門。
これもまあ、学もない、まさしく文化的ではない一般庶民の負け惜しみに過ぎないのですが‥‥
ちなみに私は、東京基督神学校という、実にローカルで、誰も知らない小さな塾のようなところでした。第一、学校が千葉であって東京でないのもおかしい‥‥
卒業生の皆さん、すいません。以前は東京にあったのですね。
でも、文化には勝てず?、もうなくなるらしい‥‥
私の神学校など、なくなっても、歴史にはまったく関係はないのですが、しかし、そこで教わり、学んだものが今の私を支えていることにはなんの関係もありません。本当によかったと思っているし、卒業生たちは、まさしく日本文化の中で(東江さん流に言えば差別)、実に一生懸命、スープの音を立てて頑張っています。感謝なことですね。
あまり生活感がなく、どうも抽象的に生きている私には、東江さんのような鋭い嗅覚はりませんが、文化という言葉には、どうも、あまりと言うより、ほとんど実感がわきません。たぶん、私にとってはまだ日本語になっていないからだと思います。
さて、いつなるかなー
Re: スープの音 - 東江公人
2009/11/04 (Wed) 17:04:35
『ヌーベル・キュイジーヌ1970年。「世界の料理をフランス料理へ」という掛け声のもと、来日したフランス料理の職人達が日本料理を学んで帰り、自分たちのヌーベル・キュイジーヌに取りこんだ』
と言う話しを確かラジオで聞いた記憶があります。
フランス料理も他の影響を受けて変わっているのでしょう。
そのフランス料理を食べながら『流石はフランス料理。日本食とは全然違うナー』などと言う人がおられたらまるで喜劇になってしまいます。フランス料理のシェフも苦笑するほかないでしょう。
Re: スープの音 - 東江公人
2009/11/04 (Wed) 17:27:23
ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背広をきて
きままなる旅にいでてみん。
汽車が山道をゆくとき
みづいろの窓によりかかりて
われひとりうれしきことをおもはむ
五月の朝のしののめ
うら若草のもえいづる心まかせに。
萩原 朔太郎の詩
フランスに憧れている文化人ですね。
僕の場合は、漫画おそ松くんのイヤミの言葉のほうが
身近かもしれません。
『ミーの洋服はおフランスでござんす。』とか何とか…
ミーというのは英語でフランス語ではないのですが…とにかく…憧れですね。
あの有名な寅さん映画の中で寅さんが、湯布院とウイーンを勘違いしてフランスに行ってしまうという映画がありました。
寅さんはフランス料理に慣れないでいる中、フランスに住んでいる日本人婦人がおにぎりをご馳走してくれるシーンがあります。
実においしそうに食べるのです。
この映画はフランス人の市長さんで親日家の方から依頼があってフランスロケとなったようです。
面白いですね。
うーん、萩原朔太郎 - 寺田祐一牧師
2009/11/04 (Wed) 17:52:57
なるほど、庶民派感覚、生活者東江さんの面目躍如たるところですね。次々にわき上がって来るようです。
面白いですね。
ただ‥‥ 、萩原朔太郎ですか‥‥
単に「文化人」として片付ける訳には‥‥
うーん、萩原朔太郎は、以前「廃園」のところで書いた詩人の一人で‥‥
またいずれ
文化の日かー - 寺田祐一牧師
2009/11/03 (Tue) 09:50:30
なるほど、今日は文化の日、休日ですか。
それで何人か早天礼拝にいらしたのですね。
東江さんは、いつも物事を面白い角度から考えておられ、教えられています。
文化、文化の日‥‥
そう言えば何でしょうね。あまり深く考えたこともありませんでした。
確か、幕末から明治にかけての翻訳における新造語であったと、ぼんやりと思い出します。三十年ほど前に中国地方(主に裏日本)を旅した時、松江や出雲を訪ねたり、萩の野山獄をたずねたりした折り(吉田松陰が幽閉されていた獄舎)、津和野に足を伸ばしたことがあったのです(瘋癲の一人旅でした)。言うまでもなく津和野は森鴎外の故郷で、むしろそっちに興味があったのですが、そこで初めて、そこはさらにものすごい人物、西周の出身地であったことが分かったのです。歴史など、からっきし駄目だった私にとっては初めて聞く名前だったのですが、「西周先生猛勉強の間」というのがその生家にあって(蔵みたいなものが、当時記念館となっていた)、非常に驚きました。
猛勉強の間‥‥ 、それだけでもう脱帽ですが、そこに書かれていた説明文によると、現在私たちが使っている「哲学」という言葉を作った人で、それ以外にも「芸術」「科学」などという言葉のほとんどを翻訳、造語した人だったからです。なんだか、河を辿っていって分水嶺に行き着いたような、不思議な感動を覚えたものです。確か、この「文化」という言葉も、その翻訳のために作り出した新造語で、その生みの親も西周という説があったと思います。
Culture、或いはCivilizationの訳語でしょうが、そのうちにCultureが「文化」、Civilizationが「文明」となっていったのでしょう。もともと新造語で、まだ新しい言葉のようなので、残念ながら、私にはあまり語感がありません。「文化住宅」、「文化包丁」と言われてもほとんどなんのイメージもわかないのです。おそらく、Cultureと言うのですから、これを使う人々にとっては実に現実的で具体的な言葉なのだと思います。種を蒔いて水やる、するとやがて芽が出て花が咲く、そして実がなり、最後に枯れて行くような‥‥
耕作、栽培といった、具体的なイメージが、「文化住宅」や「文化包丁」といった言葉にも、その根底にこの語感があるのだと思います。カンナやノミ、墨坪といった古い道具に込められたイメージのようにです。包丁という言葉にはそれなりのイメージがありますが、そこに文化と付くと、なんだか途端に分からなくなります。抽象的というか‥‥
これは教会用語としても同じ問題を抱えており、「神」、「愛」、「福音」というもっとも本質的な言葉にさえ、残念ながら日本人クリスチャンにとってもあまりなく、かなり希薄です。勿論、歴史が浅いということもありますが、うまく広がらなかった、いや、広げられなかったところにも大いなる原因もあるでしょう。ただ、「愛」という言葉はどうも一人歩きしてしまって、教会とはまったく関係ないところで大活躍しています。この「愛」という言葉を、教会が取り戻すのも至難の業のようです。「福音」などは、これを正確に読めない方々も、知識人と言われる人の中にもかなりいらっしゃるのには驚きます。
うーむ、頑張らなくちゃ‥‥
この「文化」という言葉、漢字だけを見れば、その対象が何であれ、文、すなわち言葉に化けさせる、言葉で表すということなら、それはそれで、本当に大事なことだと思います。私たち人間は不完全ですから、最終的にすべてを言葉、文化することは出来ませんが、言葉でとらえ、認識しなければそれを理解したことにはなりません。「うーん、分かってるんだけど、言葉ではうまく言えない」というのは、結局よく分かっていないことを告白しているのです。勿論、言葉は単なる信号、サインではありませんから、その言葉に込められた思いを理解し、通じる言葉を選択、組み合わせることが大事でしょう。それが文章、小説となったりするのでしょうが、詩は、そのもっとも重要な表現方法です。そして、それを理解するためには、その言葉の持つイメージを共有することが不可欠です。
文化の日かー - 寺田祐一牧師
2009/11/03 (Tue) 09:51:02
その言葉のイメージ、語感を支えているのは、その言語を使用する人々、その歴史と言うことになります。「人様に迷惑をかけてはいけない」、大変美しい言葉、文章ですが、日本人なら誰でも説明の要もなく知っています。人に迷惑をかける人は、それを知っていてするのです(だから、外国人と違って極端にもなるのです)。しかしこの世界、誰にでも通じるのではありません。その言葉の語感を共有する者たちのみに通用するのです。ここに、一口に「文化」と言いますが、まさしく「文化」の問題があるのです。それをはぐくんでいる背景はなんだろうと‥‥
文化の日をそういう風にとらえるとするならば、まず自分を成立させているのも言葉であることにもう一度思いを馳せて見る日ならば、それなりの意味もあるのでしょうね。
私たちの神様、「ことば」なのですから。
Re: 文化の日かー - 東江公人
2009/11/03 (Tue) 11:34:14
文化的生活と言う言葉があります。
この言葉は、最近はあまり言われなくなったのではないでしょうか。この言葉には、文化的生活は良いもので他者は劣っているというニュアンスを持ってるように思われます。
文化人と言う言葉もそうです。他の人よりもすぐれた人間という意味が込められているように思われます。
最近の考えは文化を優劣では、考えないようになってきました。その結果、以前の文化という意味も変わってきたのでしょう。
文化包丁とか文化住宅とは、過去の例えば、日本の伝統的家屋よりもすぐれている。和包丁よりもすぐれていると言う意味を持っていました。
文化住宅などと言われなくなったのは、それがそれほどすぐれてはいないもので生活様式の違いと言う観点で見られるようになったからではないでしょうか。
日本が開国を迫られ西洋諸国の日本にないものや考え方が入ってきた。それらのものに圧倒され日本人は、劣等意識を持ってしまった。それを表す言葉として、文明とか文化という言葉を使ったように思われます。
最近は、日本様式の生活も見直されてきたので優劣を含んだ文化という言葉があまり使われなくなったのではないでしょうか。
もちろん文化は平等だという考え方も極端だと思われます。それぞれの地域が持ってるものは、良いもの悪いもの、すぐれているもの、劣っているものが、渾然一体となってなってるものでしょう。それをひっくるめて文化と呼ぶのでしょうから。
文化の日 - 東江公人
2009/11/03 (Tue) 08:30:06
今日は文化の日。
「自由と平和を愛し、文化をすすめる」日だそうです。
文化って何でしょうか?
文化と聞くと僕の中では、文化住宅、文化包丁と言う言葉が浮
かんでくるのですが…
そして
古い日本の時代を脱して新しい文化?的生活をというスローガ
ンが浮かんでくるのです。
本当はもっと奥深いものなのでしょうが、乏しい発想ですね…(^_^;)
本当は自分達の意識しない深い部分で日本の文化、またクリス
チャンとしてのキリスト教文化を担ってるのだと思います。
今まで受けた日本の文化的な伝統を排除するのではなく、
また日本文化とキリスト教文化をただ混同するのではなく、日
本文化ををキリスト教文化の精神で消化させ、主の栄光にかえ
ることなんだと思います。
理屈は明確なのですが、具体的な事になるのとなかなか難し
い。
ある牧師先生がお茶をやったりするのはそう言う発想からだと
思います。
今日は文化の日、そういう意識しない問題に少し意識を集中で
きるかな?
対策? - 寺田祐一牧師
2009/11/02 (Mon) 13:07:05
昨日までの暖かさが、まるで嘘のように冷たい雨の降る一日となりました。
朝からごたごたしていて(特に問題ではありません)、この書き込みも遅くなったようです。もうお昼ですね。
今日は、priority「優先順位」かself control 「自己管理」について書こうかと思っていたのですが、ちょっと疲れたのでまた次の機会にします(あればですが‥‥ )。こうしたものを文章にするのは結構力がいるものなので、集中力が散漫になっている時はだめですね。
それで今日は、簡単な文章、うちの教会でいつもあげられているリーダーたちのための祈りについての一文を掲載してみます。
新型インフルエンザをめぐって、かなり対応が混乱しています。
確かに、子どもたちへの被害が多く、深刻なのですが、もう少し冷静な対応が望まれます。いたずらに恐れ、教会もそうですが、学級閉鎖や職場休業、外出控えなどによる経済的現象など、様々なところに或いは不必要な影響も出ています。隣のクラスが学級閉鎖になったことで、自分のクラスは閉鎖されていないのに休む子ども、と言うより、休ませる親もいるそうです。きっと、最後に生き残る方々なのだと思いますが、それこそいかがなものでしょうか。
基本的には、話題になってしまった時点で、責任を取りたくないリーダーたちの姿勢の現れであることが大きいと思われます(ある意味では当然なのでしょうが)。薬害など、もっと注意しなければならないものもたくさんあるのに、話題にならなければあまり‥‥
ですから、生活のかかっている現場などではまったく関係なく動いています。新型だろうとなんだろうと、インフルエンザなど恐れている場合かといったところです。ペストやコレラではないのですから、やはりリーダーたちの、保身ではなく、本当の意味での冷静な責任ある対応が必要です。何かあると、すぐに責任追及の厳しい時代で本当に難しいですが、責任追及前に、こんな時こそリーダーのための祈りが大事です。
そういえば、ご親切なことに、教団からこのインフルエンザ対策についてのガイドラインが送られて来ました。そこにはこんなことが書かれていました。
4.集会の休止、礼拝の持ち方の変更
取手地区で、感染が広がり、患者数が激増した場合は、学校、会社等同様に、集会、ジョイジョイキッズ、の休止も検討しなくてはなりません。礼拝は、神様の主催されるものですから人の側で休止はしません。ただ持ち方を変更し、会堂に集まるのではなく、それぞれの家で捧げることになります。事前に緊急時用のテキストを用意しますのでそれを用い(別紙後日配布)、場所は違っても、取手聖書教会として公同の礼拝を、主の日に同じプログラムで捧げましょう。記された讃美歌を歌い、聖書を読み、説教を読み、祈り、捧げものをして(後日会堂での礼拝出席のおりに捧げましょう)、祈りましょう(祈祷課題もそのテキストに載せておきます)。
そのような事態になった場合には、牧師から役員に連絡し、集会休止及び礼拝の持ち方の変更が妥当と判断した場合には、緊急連絡網でお伝えします。
なるほど、ご親切なことで‥‥
でも、誰が家庭礼拝をするだろうか‥‥
一見、実に配慮の行き届いた対応のように見えるのですが、私には余計なお世話にしか思われません。みんなそんなに分からない人たちなのでしょうか。
うちの教会ではまったく対策を講じません。ニュースの見方も受け止め方もみんな違いますし、この程度のことは自己判断で十分と考えるからです。いやな人は来ないだろうし、それでも礼拝を捧げたい人はいらっしゃるでしょう。どこかへ買い物に行ったり電車に乗ったりするのとどこが違うのでしょうか。
self control 「自己管理」 - 寺田祐一牧師
2009/10/31 (Sat) 08:36:51
今日はもう土曜日の朝、本当に早いもので、明日の準備が間に合わないので、今朝もまたちゃんと書くことが出来ません。
いつも早めにきちんと準備しているとそんなこともないのですが‥‥
いつもギリギリと家内に叱られます。全部一夜漬けで通って来た者にとっては、手慣れたところではあるのですが、お恥ずかしい次第です。まあ、「明日は明日の風が吹く」というみことばがありましたが、え、そんなみことばない?
ああ、失礼しました。そうですね、マタイの福音書「6:34 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」は、そんないい加減で無責任な教えではありませんよね。精一杯出来ることをし、あとは神様におゆだねする‥‥
とにかく、今日出来ることを精一杯することにしましょう。
今、盛んに言われているinformed consent 「説明責任」、Compliance「法令遵守」などとともに、priority「優先順位」という言葉が使われています。まるで民主党政権のスローガンのようですが、確かにどれも大事だと思います。priority「優先順位」がめちゃくちゃな私など、何から手をつけていいのやら戸惑い、一日何をしたかさえ分からずに終わってしまうことも多いようで、やはり、まことにお恥ずかしいことです。
ただ、これらの判断基準をどこに置くかは難しいところで、その置いたところによってすべてがまったく違ってしまいます。私のような怠け者は、昔、遠藤周作が「明日出来ることは今日やるな」などを基準にしてしまい、追求されて、つい困ったことにもなります。ですから、偉そうなことは何も言えないのですが、これらの言葉を聞くと、すでにその判断基準は決まっているかのような、そんな錯覚を起こさせるところに面倒な問題があります。どうでしょうか、こうした言葉、全部ビジネス用語であることは覚えておいてよさそうな気がするのですが‥‥
忙しい時代の時間活用法、優先順位の付け方、自己主張の仕方などなど、How To ものの多い現代、どうも目が回ってしまいます。まあ、スケジュール表をつけるぐらいは出来るかな‥‥
ある有名な牧師先生がそうしたもののHow To 本をお書きになっているのですが、なるほど、ビジネスマンには受けそうなものでした。「はー、ご活躍なさる人は、同じ牧師でも違うんだなー」と、その差に驚くとともに、どうも無理でした‥‥
私は田舎牧師に過ぎないのですから、それならそれらしく、慎ましやかに過ごすことにしましょう。しかし明日の準備はきちんとしなければ!
そういえばもうひとつ、self control 「自己管理」と言うものもありましたが、私に一番足りないものはこれかなー。
昨日の続き - 寺田祐一牧師
2009/10/30 (Fri) 11:34:36
今日もちょっとゆっくり書いていることが出来ませんが(田舎の教会なので忙しくはないのですが‥‥ )、昨日の続きをひとつ書いておきましょう。
韓国では、千人を越える教会では、そこの先生に会うのは困難です。ほとんど会っていただけません。忙しいと言うより、会ってもあまり益のない人とは会わないからです。私が日本でも有名な牧師ならいつでも会えるのですが、約束するのもほとんど無理で、集会のあとなど、一般客として「ありがとうございます」と挨拶するのが関の山です。
そんな立派な韓国の先生が、どうしてうちのような小さな田舎教会をたずねてくださったのか、その背景については簡単ですが、昨日書きました。本当に感謝なことです。
ただ、許泰誠(ホッ テーソン)先生がうちの教会をたずねてくださったには、もうひとつの理由がありました。その時以来、一度もお会いすることはなかったのですが、実は、驚いたことに、今日本に宣教師として来ている家内の弟が、許泰誠先生と、神学校の同級生だったのです。そしてそれを、私も先生も初めて知ったのです。今回、先生の来日目的は、その弟の教会をたずねることだったのですが、そこで「もう17年前、ある日本の先生がうちの教会に来たことがる」と先生が言うと、「へ−、それはなんという先生ですか」と弟が聞いたら、「確かテレダ先生だった」というのに驚いたのです。「それは私のお兄さんですよ」と。
お互いにびっくりしたのですが、私が近くにいるということで、「お兄さん、昔お兄さんがたずねて行ったようですが、許泰誠先生、覚えていますか」早速連絡して来たのです。
もう十七年も前のことで、しかもその当時毎週のように韓国の教会をたずねていましたから、名前を聞いただけでは思い出せなかったのですが、公州と聞いてすぐに(百済の歴史に興味があったので)、ああ、あの小学校の先生をなさってた人だなと思い出しました。
ぜひたずねたいというので、勿論、こんな田舎の小さな教会でよかったら、いつでも来てくださいといって、お出でおただくことになったのです。
つまり、弟の同級生だったということも驚きで、人はどこでどうつながっているのか分からないものだと恐れると同時に、神様の不思議な導きを感じました。でなければ、いらっしゃることは一生なかったでしょうから。そして、その後の様々なことを知ることもなかったのです。
さらに、大教会へ移られた先生は、なんと韓国での朱基徹委員会の理事の一人であることも分かりました。来年の韓国での朱基徹委員会では、野寺先生が講演することになっているのですが、その時には必ず江辺教会でもよろしくとの話になりました。
朱基徹委員会の輪が、もうひとつ広がることになったようです。
あの貧しい「農漁村牧会者修養セミナー」での、本当に貧しい出会いであったのですが、こんな導きにつながるとは、不思議、と言う他はありません‥‥
弟が日本への宣教師でなければ‥‥
しかも同級生で謙遜な許先生でなければ‥‥
もっと驚いたことは、通訳をしてくださった野寺先恵美生と野寺先生とは、すでに弟の教会で、それとは知らずに会っていたことでした。水曜祈祷会の夜、うちの教会でまた会って、互いに、勿論私もですが、本当に驚いてしまい、急速に親しくなったのです!
うーむ‥‥
許泰誠(ホッ テーソン)先生 - 寺田祐一牧師
2009/10/29 (Thu) 13:36:47
昨夜の水曜祈祷会には、韓国から許泰誠先生ご夫妻がいらしてメッセージを取り次いでくださいました。先生は、韓国でも有名な金ミョンヒョク先生の後任者として、江辺教会という教会で牧会なさっています。金ミョンヒョク先生は、韓国合同神学校の校長先生としても長くお勤めになった方で、ご専門は教会史でした。実は、私たちの神学校、東京基督神学校の校長をなさった丸山先生とは、ウェストミンスター神学校で同級生でした。JEA、日本福音同盟との関係が深く、大きな会議の時などでは、度々来日されます。
その金ミョンヒョク先生が引退なさったので、その後任者に招かれたのですが、その後任者を選ぶにはだいぶ難航したようです。韓国の少し大きな教会では、牧師を招聘する時、基本的にはソウル大学(日本で言えば東大でしょうか)、そしてアメリカかヨーロッパでの博士号は不可欠なアイテムで、でなければ履歴書の段階ではねられてしまう、超難関の人事なのです。まあ、強烈な学歴謝意で社会である韓国ならですが、日本の教会事情とはだいぶ違います(以前、教会をたずねて来てくださった方が、「前は建築の設計の仕事をしていました」と言ったら、「え、失敗して逃げて来たんですか」と、驚かれてしまいました。日本人の牧師イメージとはそんなものかも知れません)。ですから、その中でのソウル市内の一等地にあり、超有名教会の牧師なので、相当なエリートでなければならなかったのです。その教会に招かれたのが、最終的に許泰誠先生だったわけです。
そんな偉い先生が、7,8人ぐらいしか集まらない、日本の小さな田舎教会などへどうして来たのか。それは、私も日本では学歴もある偉い牧師だからです(え、違う。そんなはずはない、ただの年老いた田舎牧師だろうって?)。ええ、勿論違います。
では、しかし何故‥‥
ここまで書くと(もうすでに嫌になっている方もいらっしゃるでしょうか)、いかに許泰誠先生が社会的な地位のある立派な先生であるかの自慢話となり、そんな先生がわざわざいらっしゃる私の教会が、どんなに立派な教会であるかの自慢話にしか聞こえませんね。
実は、この許泰誠先生、ソウル大学どころか(見事に落ちたそうです)、博士号などまったく関係なく、小学校の先生だった人です。ある時、イエス様と出会い、ずっと迷ったあげく、教師を辞めて牧師となった先生で、公州という寂れた田舎で開拓伝道をなさっていたのです。ソウルとも大教会ともまったく無縁の、一生それで終わるであろう、農村牧師だったわけです。
私たち夫婦が、17年前、ソウルで一年過ごした時、あることをきっかけに、許泰誠先生が所属するグループの、「農漁村牧会者修養セミナー」という集会が、温陽(オニャン)という農村の、これまた小さな教会で行われるのを知って、そこに参加をしたのです。さすがに、いかに日本の牧師が小さいとはいっても、わざわざ外国まで来て農漁村牧師たちの集まりに参加することはありません。だいたいは大きくて立派な教会をたずね、口をあんぐりと開いて驚き、「すげー、すげー」と何も学ぶところもなく帰って来るのが普通です。ましてや17年前など、驚いたのはむしろそこに参加していらした田舎の先生方でした。しかし、珍しさもあったのでしょう、実に親切に歓迎してくださいました。
ソウルの先生とははっきりと違う、貧しいことが一目で分かる先生方の姿、寝る場所、そして質素極まる食事(極端に言うとスープとキムチで、スープの中にご飯を入れてスプーンで食べました)、日本の教会、やはり田舎の牧師と同じでした。許泰誠先生もまた、そこに参加するのがやっとという、貧しい田舎の先生だったのです(参加費を払えなかったそうです)。
しかし、その三日間のセミナーは、私と家内にとっても忘れられない経験となりました。先生たちの主に仕える思い、その真剣さと熱心さにはこころ打たれ、そして励まされたのです。
そこで出遭った先生たちとは、夜を徹して話したりして、みんな親しくなりました。そして、みんな田舎でしたが、次々にお招きいただいて、おたずねしたのです。その数50はくだらなかったの思います。ある意味では、他の日本人の先生には体験できない、韓国文化、特に田舎、教会の世界を深く体験することが出来たのです。その後の、私の韓国理解に大きな影響を与えることになったのです。
許泰誠先生 - 寺田祐一牧師
2009/10/29 (Thu) 13:37:17
許泰誠先生とは、そこで親しくなったのですが、早速先生の教会に招かれ、おたずねしたことを、本当に懐かしく思い出します。大変な教会形成、貧困を極める先生ご家族の生活、今思い出してもこころが痛みます。しかし、その後一度もお会いすることはなかったのですが、その後の消息も知らず、今回初めてお会いしたのです。
このきっかけについてはまたいつか書くことにしますが(神様の摂理と言う他はない)、その先生が、あの有名な教会の牧師になっているとは、不思議なことですが、韓国教会もまだまだ捨てたものではないと感謝しました。この経緯についてもまたいつか。
そんな大教会の牧師になったのに、先生ご夫妻はそのままでした(私同様田舎者という意味です)。私たちの教会をたずねるのを楽しみにしておられたようで、本当に楽しいひとときでした。普段9時前には終わる祈祷会ですが、昨夜は10時になってしまいました。
その後先生ご夫妻と、見事な通訳をしてくれた野寺恵美先生を送って帰ったのは、もう0時半ぐらいになっていましたが、まったく疲れなかったのもまた不思議です。
実にたくさんのことを思い出させ、なんだかまた新たにされる、尊い時であったと思います。
感謝!
せせこましい日本猿 - 寺田祐一牧師
2009/10/28 (Wed) 09:16:44
「言わなきゃわかんない」、「もう黙ってない」など、よい意味でも使われることがありますが、ほとんどの場合、相手のためだと言いながらも悪いと決めつけて言う場合が多いようです。「がつんと言わなきゃ駄目だ、どこまでもつけあがる」、「黙ってたら損する」、かなり攻撃的なことがほとんどです。こうした言葉を聞くと、と言うより言われると、私など本当に震えてしまいます。確かに、言われなければ分からないのでしょうが、そう言っている方々の顔が恐ろしいからです。ですから、私自身は言ったことがないと思いますが(意識出来ている限りですが)、ただもう、すいませんでしたと謝るほかはありません。恐いからです。まあ、負けてしまいます。
いつからそうだったのだろうか、ふと疑問が浮かびます。以前にもそう言う人はいましたが、回りからはむしろ疎まれているような、少し変わった人が多かった気がします(だから言うことに価値があったのかも知れません)。しかし今は、ごく普通の人が、まさに「もう黙ってない」といった表情で、むしろ攻撃して来ます。
それがよいのか悪いのか、場合にもよるでしょうが(公害や薬害問題など、黙っててはいけないこともたくさんあります)、正直なところ、私にはよく分かりません。ただ言えることは、「黙っていたら損する」という考えが支配的になったことは確かでしょう。
かっこつけて「沈黙の美徳」などと言っている場合じゃない、言った者勝ち‥‥
以前、柔道が面白くないと書いたことがありました。今でもそう思っています。はっきりつまりません。レスリングとどこが違うのでしょうか。むしろレスリングにしてしまった方がすっきりすると思います。柔道ではなく、柔道からうまれた新しいスポーツ、JUDOにすれば、それはそれでよいと思います。反対する理由はありません。嫌なら見なければいいのですから。
確かに、『「柔道」ではなく、競技としての「JUDO」になりつつあるのではないかと考えている日本人は少なくなく、また、海外の柔道の試合は今でもポイントを狙う試合展開をすると誤解されていることが多いが、外国選手はむしろ大技中心の柔道であることが多く、国際試合の一本勝ちの集計からもその事実は明らかにされており、IJFルールも、「効果」を廃止したり足取りばかりを繰り返す試合展開を規制するなどにより、迫力のあるスピーディーな決着を促す方向で改正されている』といった解説もあります。
面倒臭いから議論はしませんが、これも良し悪しの問題は別にして、かつての柔道とは違って来ていることは認めている訳です。
私が言いたいのは、よくなったかどうかではなく、大男を相手に、最後までじっと忍耐をし、一瞬の隙を狙って投げ飛ばす柔道ではなくなった、なるべく多くの業を仕掛け、ポイントを稼ぐ競技になったと言うことです。
大男を投げ飛ばしたというかつての柔道では、短い時間の中で、そこまで行く間にポイント負けしてしまいます。時間をかけてつらい忍耐をし(やせ我慢の精神)、やがて勝利をつかむなど、「この忙しい時代、何を寝ぼけたこと言っているのか」と一蹴されてしまいます。言わなきゃ駄目だし、手を出さなきゃ駄目だと。
日本人もまた、様々な意味で柔道からJUDO的になったのでしょうね。
きっと、おめでたいことなのでしょう。
自己主張をし、スキルを上げ、相手の上を行く、悪いこととは言いませんが、つまらないなーという思いは否めません。知らず知らずのうちに、相手の土俵にのって勝負させられてしまっている‥‥
今はそんなことを言っている場合ではないとしても、長い歴史をもった世界の戦い方の中で、本当に勝負出来るのでしょうか。日本の柔道選手が、どうも不器用なゴリラに見えて仕方がないのですが、日本にはゴリラはいなかったはずです。
大事な点は、まず面白くないということですが、無理にゴリラにならなくても(恐いですよ、今の日本人)、せせこましい日本猿でよいということです。けちな日本猿が大きなゴリラを投げ飛ばす、もう少しここに醍醐味を感じてもいいような‥‥
第一、私たちが勝負しているのはスポーツではありません。
福音は、伝えられた地域の歴史や文化を決して破壊はしませんでした。むしろそれを尊重し、育てることによって生長させて行ったのです。むしろ西洋的な力をもって、見下すように入って行った福音は、現在、大きな問題として残り、アンチキリスト教といったしっぺ返しを喰らっているのです。これは、福音に反対しているのではなく、そのやり方に反発しているのです。
ぜひ、ポイント制に翻弄されるのではなく(スーパーなどで「ポイントカードはお持ちですか」と問われるのですが、よく分からない私はいつも曖昧な顔をしてしまいます)、日本的美徳の、よい面に目をしっかりと向けて考えるのも無駄ではない気がするのですが‥‥
「朱基徹牧師記念の集い」のニュースレター - 朱基徹委員会
2009/10/28 (Wed) 11:39:52
一応、「朱基徹牧師記念の集い」のニュースレターが出来ましたので、「お知らせ」のところへ掲載しておきました。ご覧ください。
居心地のいい場所 - 寺田祐一牧師
2009/10/27 (Tue) 08:18:33
今朝は、昨夜までの雨と風が嘘のようになくなって、実にさわやかな秋晴れとなっています。まあ、気持ちのよいものです。ちょっと寒くて、秋らしいにおいがするところがいい。
昨日までの雨と風は何だったのでしょうか。或いは台風だったのかも知れませんね。浮世離れした生活をしている者にとっては、よく分からないのですが‥‥
でも、この前凄い台風が来たばかりですから、違うかな?
informed consent 「説明責任」の続き、昨日の鳩山総理の演説、それに対する自民党などの反応、特にマスコミなどの反応につて、或いは「理念と実用」などなど、書きたいものはたくさんあるのですが、どれも、一旦手をつけてしまうと歯止めが効かなくなってしまうので、なかなか着手出来ません。まあ、ブログなどというところで書くものでもなさそうなのですが‥‥
いずれは手をつけますが、今日は安全なところで「気候の挨拶」といったところです。
実は、来月の15日(日)午後三時半から、赤羽聖書教会で行われる「証言集会・朱基徹記念の集い」(講師:結城晋次「高山教会の場合」、笹川紀勝「帝国の侵略と朱基徹の戦い」)の案内、今後のスケジュールや報告を載せたニュース・レター?を作らなければならないのです。
委員会には優秀な人材はたくさんいるのですが(だったらいいけど、たくさんではないかも知れない‥‥ )、どうも別な方面に優れていて、こうしたニュース・レターなどを作るのは苦手らしく、私しかいないのです。雑用係といったところですが、これと言ってほかに優れたものもない(こういうものを作るのは得意ですよ!)、私にはそれがふさわしいようです。
こうした下働き、広報担当もいなければ現実には進まないものですが、委員の多くは、黙っていても神様がなさってくださると信じているようです。本当にうらやましい人たちです。私は、こんなおめでたい人々に囲まれて、この「朱基徹委員会」に、支援者として参加しているわけです。この世には決して、いや、おそらくキリスト教界にもないかな‥‥ 、しかし、ここほど楽しく、居心地のいいところもありません。
これから、早速ニュース・レター?の作成に着手しますが、完成したら、また「お知らせ」のところへ掲載しておきますので、ご覧ください。今日は、午後にお絵かきの時間もありますから、早くても今日の夜、たぶん明日の午前中には出来ているでしょうか。
おやおや、この時間になると(八時一五分)、本当に秋晴れ、気温もだいぶ上がって、とても気持ちのいい日となりました。こんな時、南側に向いた窓を持つ、教会の牧師室は大変居心地のいい場所になります(ひなたぼっこ‥‥ )。すっかり枯れ果てた、秋のリトルワールドを眺めながら(廃園)、朝入れたばかりのアールグレーをいただくのは贅沢なものです。
まさに灰色の美味しさです。
信仰による知識 - 寺田祐一牧師
2009/10/26 (Mon) 08:51:49
土曜日の夕方ぐらいから少し雨が降り始め、昨日の主日も一日曇り時々雨でしたが、今朝は冷たい雨の月曜日となりました。
こんな日は家に閉じこもり、暖かいコーヒーなどを飲みながら、ゆっくりと推理小説やSFを読むのもいいものです。しかし、残念ながら多くの方々はそんな贅沢は言ってはいられません。今日もまた雨の中、何であれ、お仕事にお出かけのことでしょう。
偉そうに申しますと、私もまた、すでに早天礼拝という一仕事をして来たところでございます。だいぶ以前ですが、早天礼拝は大変だとここで書いたら、「皆さんもっと苦労していますよ。たかが早天礼拝ごときでお気楽なことで」と、お叱りを受けたことがありました。まことにその通りで、ひと言もありませんでした。
ただ、これが毎日というのは案外難しいもので、私も、何度も遅刻していますし、ついに起きられずお休みしたこともあります。これまで続けて来られたのは、私にとっては奇跡に近いのですが、一人ではまったく出来なかったと思います。確かに、どなたもいらっしゃらない日もあるのですが(私だって休むことがあるのですから)、トータルで見ると、ほとんど、どなたかがいらっしゃいます。今朝もまた、冷たい雨の中、三人ほどいらっしゃいました。これはもう感謝であると同時に、そのために休めないといってもいいものです。勿論、神様のお助けによることですが、これがなければ出来なかったことも確かです。まあ、お出でくださる方々に支えられて、と言うことになるでしょう。祈りの同労者といったところです。
ただ、教会ではあまりこの早天礼拝を強調することはありません。参加しようと考えていない方々には反発を感じさせるし、しなければと思いながらも、様々なことで出来ない方は負担に感じるからです(この世の忙しい時代ですので)。気心が知れてしまっている小さな教会では難しいところです。本当は強く訴えて勧めたいところですが(原点ですから)、出来ずにいます。最終的にはイエス様とその人の問題で、私はとにかく、一人でも多くいらっしゃいますように(勿論主日礼拝にも)、或いは、本当は本人が祈るのが一番いいのですが、私の役割は、とにかく執り成しの祈りをすることだと、考えているからです。いつの日か、韓国ではすでに出来ているのですが、毎朝多くの人々が集まって、祈りから始まって行くのを夢見ています。
今朝の聖書箇所、コリント人への手紙第一8章に、次のような箇所がありました。
8:9 ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように、気をつけなさい。
なかなか意味深なことばで、詳しくは「朝ごとに」をご覧いただきたいのですが、パウロは本当によく分かっていたのだなと、感心してしまいます。「偶像に捧げた肉」を食べてよいかどうか、コリントの教会で問題となったらしいのですが、日本の教会でもすぐに直面する相当面倒な問題です。
詳しくは論じませんが、少なくともパウロは「偶像にささげた肉を食べることについてですが、私たちは、世の偶像の神は実際にはないものであること、また、唯一の神以外には神は存在しないことを知っています」と、だから「偶像に捧げた肉」など存在しないと言っています。ですから食べようと食べまいと、何の問題もないのだと。
確かに、パウロが言うように、それが正しい認識、知識でしょう。
しかし、だからと言って、食べたら穢れると、恐れている「弱い人」の前で平気で食べるあなた方は何者なのでしょうか。本当に信仰の知識があると言えるのでしょうかと、パウロは詰め寄っています。
8:2 人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。
これはまた、なかなか強烈なパンチです。
信仰による知識とは、「しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます」ではありませんか、知識のある皆さん、とパウロは言っています。日本における早天礼拝の問題もまたそうかも知れませんね。
ふーむ‥‥
あなたの第一は何か? - 寺田祐一牧師
2009/10/24 (Sat) 09:27:52
今日は、今朝読んだコリント人への手紙 第一7章の書き込みが少し長くなってしまったので、それをこちらに掲載することとします。
7章もまた、どう読むかの難しい箇所です。
特に結婚の問題、「処女」未婚の若い女性の場合、なかなか面倒な書き方をパウロはしています。パウロ自身、独身であったらしく、どうやら生涯それで通したようで、自分のようにするのがよいと、独身主義とも取られかねない言い方をしているからです。言い方はともかく「しかし、もし心のうちに堅く決意しており、ほかに強いられる事情もなく、また自分の思うとおりに行なうことのできる人が、処女である自分の娘をそのままにしておくのなら、そのことはりっぱです。ですから、処女である自分の娘を結婚させる人は良いことをしているのであり、また結婚させない人は、もっと良いことをしているのです」とは、後の修道院制度を奨励しているようで、そう簡単な問題ではありません。
勿論、結婚を否定していないのは分かりますが、決して積極的ではありません。「結婚していない男とやもめの女に言いますが、私のようにしていられるなら、それがよいのです。しかし、もし自制することができなければ、結婚しなさい。情の燃えるよりは、結婚するほうがよいからです」と、きちんと守れないなら、しない方がよいとさえ言っています。
朝の時間では扱いきれませんが、パウロの言いたかったこと、考えていただろうことだけを簡単に、そう、簡単に記して見ましょう。
まずこの問題、果たして一般的なものか、あるいはコリント教会へ向けた特別なものかによって、読み方がだいぶ違ってしまいます。また、パウロはどんな状況を想定して言っているのかにもよって違って来てしまいますが、私はこう考えます。
「私はこう考えます」、解説者が私情を前面に出して論じるのはよくないことでしょうが、ここでは、パウロ自身がそうした手法をとっています。「7:6 以上、私の言うところは、容認であって、命令ではありません」、「7:12 次に、そのほかの人々に言いますが、これを言うのは主ではなく、私です」や「7:25 処女のことについて、私は主の命令を受けてはいませんが、主のあわれみによって信頼できる者として、意見を述べます」など、かなり特殊な場合の指導だと、わざわざことわっています。
また、割礼の問題、奴隷と自由人の問題の取り扱い方もそうですが、すべは「7:29 兄弟たちよ。私は次のことを言いたいのです。時は縮まっています。今からは、妻のある者は、妻のない者のようにしていなさい。7:30 泣く者は泣かない者のように、喜ぶ者は喜ばない者のように、買う者は所有しない者のようにしていなさい。7:31 世の富を用いる者は用いすぎないようにしなさい。この世の有様は過ぎ去るからです」に要約されているように思います。
すなわち、世の終わりが近いのではないか、少なくともパウロはそう考えていた。これがまず、これらの意見の大前提にあり、特にコリントの教会に色濃く表れていたのではないかと言うこと。でなければ、或いはコリントの教会に対してでなければそこまでは言わなかったのでないかと「私は考えます」。
さらにそんな中、まず最初に神様の裁きが降ってもおかしくないコリントの町において、何か終末の退廃ムード漂う中で、教会としてクリスチャンとして、何を第一とすべきかが忘れ去られていると感じたのでしょう。結婚という制度より「情欲」が優先し、結婚すると中心点が夫、妻、家庭となってしまう。まず自分の生活、欲があって、その中のひとつに教会があるような、或いはそのまま教会もイエス様も、その人のこころから消えてしまうようなです(これは日本の教会の大きな問題で、特に女性の場合、未信者の男性と結婚する場合、残念ながらそのほとんどが信仰から離れてしまいます)。終末感漂う中で(パウロにとっては主の再臨ですが)、パウロは非常な危機感を感じていたに違いありません。ですから、つい律法的な言い方になりがちなのですが、私自身、日本の教会に同じ危機感を強く抱いています(割礼の問題は、そうならないようにとのパウロの戒めでしょう)。 ひと言でいうと、あなたにとって、「イエスは主」ですか、ということでしょう。
あなたの人生の中で、イエス・キリスト以外に大事なもの、主があってはならないと戒めているのです。だから「7:23 あなたがたは、代価をもって買われたのです。人間の奴隷となってはいけません」と言っているのです。結婚も仕事も家族も、自分にとって大事なことすべてを、「イエスは主」であるところからもう一度考えなさいと。
それらすべてもまた、主であるイエス・キリストの御手の中にあるのですから。
「地の塩、世の光」 - 寺田祐一牧師
2009/10/24 (Sat) 09:37:49
ですから私は、ここから独身主義や、後の修道院制度などを読み込むべきではないと考えます。修道院制度そのものは、それなりの背景を持って生まれて来たものですから、それを無視して一概に論じるものではありませんが、それをまた普遍的な制度と考えるべきでもありません。ましてやそうした根拠をこういうところに読み込むべきでもないでしょう。
もし読み込むなら、まさしくマタイの福音書5章のはずです。
5:13 「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。
5:14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。
5:15 また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。」
私たちは、負担の大きいところではありますが、驚いたことに、「地の塩、世の光」としてこの世に遣わされた者、らしいのです。
ここでパウロが言いたかったことも、このことだと、私は考えます。
「朝ごとに」のところにも補足で書いてあります。
いやはやしつこいことで、すいませんが‥‥
もう少し「説明責任」 - 寺田祐一牧師
2009/10/23 (Fri) 09:08:14
そうですね、informed consent 「説明責任」についてもう少し。
基本的には、すべての法的契約などに問われる責任でしょうが、日本では主に医療、医薬品問題などに使われることが多いようです。しかし、さらにその用法は広がって、ほぼあらゆる人間関係の間に生じるトラブルにおける、大きな責任の一端として使われています。「聞いてねーよ」から言った言わないの問題まで、教会の中でも勿論起きる問題です。
ただ、昨日も書いたように、この説明責任の問題、どうも嘘やごまかしとごっちゃになって論じられているようで、あまりすっきりとはしません。むしろ相手のミスをついて攻撃する材料や、単なる責任逃れのために行われているように見えます。嘘やごまかしでも、説得力があればそれで責任を逃れてしまう‥‥
この点、「いじめ」という言葉とよく似ていて、恐喝や暴行など、本来犯罪であるべきですが、学校や地域、団体などで起こると「いじめ」の範疇に入れてしまいます。不思議なことです。同じようにこの説明責任も、嘘やごまかしまで含めて言われるのですが、嘘やごまかしは説明責任のうちには入りませんので、明確に分けて話さなければなりません。嘘やごまかしと説明不十分、或いは話せないことのために曖昧になることとは違います。
今はもう治療も進歩して、ガンは死刑宣告ではなくなっていますが、どう結論するにしろ、かつては「告知」するかどうか、ずいぶん議論されたものです。無責任とも、嘘ごまかしと言うわけにはいかない、真剣なものであったことを忘れるべきではありません。私などは、未だにむしろ「告知」しない、されない方がよいという立場です。
これを不誠実というなら、私にも言いたいことはたくさんあるのです。
父は20年ほど前、ガンのため、岩手医科大学病院というところで亡くなりました。ここの教授が父の教え子で、かなり親身な治療にあたってくださっていました。といっても教授ですから、その医局員たちが担当してくれたわけですが、かなりちゃんとなさってくださったと思います。
亡くなる三日ほど前に私が呼ばれ、その病状について、まさにinformed consent を受けたのですが、その際父がもう治療不能のガンであって、長くても1年、早ければ半年というものでした。ところが、なんとそれから三日目、言って見れば、その舌の根も乾かないうちに、あっという間に死んでしまったわけです。まだ時間はあると考えた私は、一旦東京に戻ったのですが、ついた途端に電話があって、また岩手に戻らなければなりませんでした。説明とはだいぶ違っていたので、本当に驚きました。教授と医局員たちの話を耳にすると(今はドイツ語ではなく英語で話しているので分かってしまう)、どうも、ミスというより少し甘い見通し、至らない点はあったようです。同じ説明を聞いていた妹などは、「おかしい、抗議しよう」とさえ言っていました。それほど説明とは違った結果となったのです。
しかし、私は止めようと言いました。理由は簡単で、解剖によってしかわかないガンの進行があったこと、時期は早まってしまいましたが、いずれ助からないことは分かっていたこと、そして大事なことは、説明責任不足ではあったのですが、私が病院へ泊まり込みで看病している間、医局員の方々がどれほど真剣に治療にあたってくださっていたかを知っていたからです。そこに嘘もごまかしもなかったこと、確かに判断ミスはあったでしょうが、やむを得ぬものだったと考えたからです。第一、その説明をなさってくださった時、その説明を聞いている私自身にそれを判断する能力はなかったのです。
説明責任の大事な問題のひとつは、その説明をしても分からない人にする場合と、その説明を聞いて判断出来る人との場合では違うと言うことです。お年寄りへの訪問販売は、これを悪用すると犯罪になりますが、教授への医局員の説明責任は、まさしくその能力と意識が問われるものです。この場合の嘘やごまかしもまた、責任と言うより犯罪になるわけです。薬害や医療ミスも、時にはそれに当たるでしょう。
ですからここで大事なことは、この説明責任のうちには、互いの信頼関係が非常に多く関係していると言うことです。医局員の方の説明責任は、或いは不十分であったかも知れませんが(見通しが違ったという点で)、日頃の態度や治療に対する姿勢の中に問題はなかったのです。ですからその説明に嘘やごまかしはなかったと、私自身が判断したからです。
私など、何か問題があると、すぐに「えー、やっぱり」と、それこそ説明も聞かれないまま批難の的にされてしまうような者は、まさしく日頃の行いが問われていることになるのです。不徳のいたすところですが、説明責任とは、その生き方を通して、日々なされるものかも知れませんね。
大変なことです‥‥
うーん、説明不十分なのでまた続くかも知れません。
説明責任? - 寺田祐一牧師
2009/10/22 (Thu) 11:16:44
今日はあまり書きたいこと書くべきことが思い浮かびませんでしたので、たまっているほかの仕事をしていました(「朝ごとに」のところへは書いてあります)。
それで、どうしようかと思ったのですが、先日、私が朱基徹委員会でお話しした「安藤忠雄・三つの教会建築」についての報告が「あまりの要約し過ぎで、素人、出なかった者にはまったく分からない、意地悪が過ぎる」とのご批判がありました。「紹介するならもう少し分かるようにして欲しい」と。なるほど、そうかと読み直して見たのですが、「へ−、いったいどこが分からないんだろう。よく書けているのになー」と、反省もなにもなく、改めて考えてみました。
しかし、こうした食い違いや断絶は、おそらくあらゆる分野に起こっているものと思います。よく「説明責任」とか「透明性」などと言われますが、反対に、よく説明しようとして詳しく話すと、「難しくてわかんない。もっと簡単に話してよ」と言われてもしまいます。以前、小さな字で細かく書いてある私の週報や集会テキストなどを見て、「先生、こんなの誰も読みませんよ。もっと大きな字で見やすく簡単に書かないと。人目でもパッと分かるように写真とかイラストも入れるのがいい。今の若い人はみんなイメージでしかとらえないから」と、つまり、大きな字で短くまとめたキャッチフレーズにしろと言うことなのです。今はもう四文字熟語でも多い、三文字がいいのだそうです。
これもまたなるほどですが、しかし、「責任力」の自民党は「政権交代」の民主党に大負けをしてしまいました。何年か前の「郵政民営化」は確かに小泉さんに大きな勝利をもたらしましたが、驚くべき無責任体制となったことは誰でも知っているところです。それ以外の大事な説明は何もしなかったからです。郵政民営化とはなんの関係もない、「靖国公式参拝」の無責任ぶりにはただ唖然とする以外にはありません。新しい自民党の総裁谷垣さんも行っているようですが‥‥
互いに横の連絡さえ難しくなった専門分野の先鋭化は、すでに「説明責任」などは不可能な時代に入っています。かえって誤解による問題の方が深刻化するでしょう。
「平和憲法」、「核廃絶」、「自衛隊反対」、「無抵抗主義」などなど、簡単に言えと言われればこれ以上のことは言えないし、「じゃ、どうして国民の生命財産を護るの」と、あざ笑いながら馬鹿にして言う石破さんなどに説明するのには、かなり複雑な説明、議論を要するでしょう。簡単には説明出来ないぐらい、分かるべきです。もし、本当にひと言で言えというなら、ただ駄々っ子のように、「戦争は嫌だ!」と言うほかはないのです。
以前、ある人がこのBBSで、私の書き込みのだらだらした様子を見て、まるで真理であるかのように「もっとコンセプチュアルスキルを身につけなよ」と笑われてしまいました。言いたいことを短い的確な言葉で表現する、ビジネスには欠かせないスキルなのだそうです。そう言えば、イエス様はその名人でしたよとのおまけもついていましたね。
しかし、イエス様のおことばも聖書も、決してそうは書かれていません。聖書が厚いか薄いかは人によるでしょうが、少なくともそれを読み通すにはかなりな時間を要しますし、簡単に話してくれと言われても「聖書は神のことば」、「人生の道案内」、「神様からのラブレター」と言うぐらいで、これでは要約したことにはならず、かえって様々な誤解すら生むでしょう。世界の歴史の中で、もうどのぐらい説教が成されたかは分かりませんが、未だにすべてが解き明かされたことはなく、最後には、「まあ、とにかくご自分で聖書をお読みなさい」と言うほかはないものです。
説明責任は、むしろ説明不能なことを正直に伝えることでもあるかも知れません。
誰でもが医学部を卒業しているわけではないし、法律の専門家でもありません。素人の質問に分かりやすく簡単に答える、確かに大事なことでしょうし、小泉さんのように人気も出るでしょうが、私にはむしろ無責任に思えるほどです。
説明責任? - 寺田祐一牧師
2009/10/22 (Thu) 11:17:24
「説明責任」という言葉が出て来ると、私は背筋が寒くなるし、ただ単に相手を攻撃するために使われているように聞こえます。そしてこの言葉にはすでに社会的コンセンサスが出来ているかのような力があるので、こう問われて「説明出来ません」とはなかなか言えません。すぐに「無責任」のレッテルを貼られてしまいます。嫌な世の中です。
特にそれを言うのが、いかにも国民や一般大衆を代表しているかのようなマスコミの場合が多いのですが、本当にうんざりして嫌になります。あなたは何者なのかと。少なくとも私はその一員ではありませんよ。
特に牧師などは、誰かのプライバシーに関わることも多く、たとえ誤解されても説明出来ないことはたくさんあります。本当にたくさんあるのですが、出来ないものは出来ないのです。
勿論、私も説明責任のすべてを否定しているわけではありません。ただ、どう問われても説明出来ないことはあるわけで、嘘やごまかしを言っているのではありません。この説明責任、責任のがれの嘘やごまかしとは、明確に区別してとらえておかなければなりませんね。
ああ、書き始めると駄目ですね。
「安藤忠雄・三つの教会建築」はどうなったかって?
* うーん、私に説明責任はありませんが、興味のある方、資料ご請求のかたはお問い合わせください。詳しいお話しや資料をお送りします。ただ、ちょっと聴きごたえあるもので、時間もだいぶかかりますよ。第一、この話をするまでにも、近現代で六回、それ以前にも八回ぐらい講義をしておりますので‥‥
口を大きくあけて - 寺田祐一牧師
2009/10/21 (Wed) 10:46:26
今日は、夜に水曜祈祷会がありますので、今、その準備をしています。
いつものように祈り、みことばを学ぶのですが、適当にというわけにもいかず、毎回苦労しています。しかし、自分ではそれなりに苦労したと思う割には、なかなかうまくは行きません。スランプなどという、いい訳じみたことを言うつもりはありませんが、まあ、それが実力といったところでしょう。第一、ずーっとそうなのですから、スランプとは違うはずです。スランプとは、王選手や浅田真央選手などが使う言葉でしょうか。
それはともかく、今日のテーマは「祝福を入れる器」です。なんだか御利益的に聞こえますが、まさにその通りです!
二十世紀の後半に流行ったペンテコステ派のものの中から引っ張り出し、それをリメイクしようとしているものです。しかし、こういう書き方は、すでにペンテコステ派が衰退しているかのようですが、勿論そうではありません。日本では確かに勢いは衰えているようですが、世界的な趨勢を見れば、むしろペンテコステ派が台頭しているようです。理由も明らかなようで、理屈や議論、システムや組織では満たされず、もっと感情として神様を感じたいからでしょう。そのために東洋神秘主義やカリスマ、ニューエイジといったような、危ないものもまた入り交じってしまうのです。
しかし今日の「祝福を入れる器」は、そうしたものとはまったく無関係で、神様からの祝福は口を大きく開けて受けるものだという単純なものです。
詩篇 81篇6〜14節「わたしが、あなたの神、主である。わたしはあなたをエジプトの地から連れ上った。あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう」とは、賛美と祈りは、下を向いてごにょごにょではなく、上を見上げて大きな声に出し、つまり大きく口を開けてしないさいということです。声に出してしなさい、でなければ、挨拶でもあなたの思いでも、相手には伝わらないでしょうと。口を開けよとは、声に出して、大きくとは、大きな声で、でしょうか。
これだけのことなのですが、何か賢いことや過激なことを言わずにまとめるのも案外難しいのです。つい韓国ではとか、アメリカでははっきり主張しなければ伝わりませんよなどと言って見たくなるものです。
しかし、私の教会は日本の教会なので、聖書は日本人のためにも書かれているはずですから、ただ単純に読めばよいと、常々考えています。少なくとも祈りが中心の祈祷会においてはです。分かっているはずなのですが、実際に準備を始めると、小賢しさや受け狙いが頭をもたげて邪魔をして来ます。つい、賢い説教にしたくなるのです。そんな時、油断していると、結構いいものが出来たと錯覚して独り善がりとなってしまいます。そして、終わってからいつも恥ずかしい思いをするのです。
さて、では今日はどうまとめればよいのか。
単に聖書朗読で終わるのもいいかも知れませんね。
そう言えば、神学校の時、ある先生がそう言っていました。
「皆さんが下手な説教準備するより、信徒さんにはその方がよほどいい」
なかなか辛辣なことばですが、そうもいきませんので、これからしっかりと準備をして参りましょう。
おいでくださる皆さん、期待してください。
ピルグリムファーザーズ(Pilgrim Fathers)と安藤忠雄 - 寺田祐一牧師
2009/10/20 (Tue) 08:47:05
昨夜の朱基徹委員会は、少し遅くなりましたが、いつにも増して楽しいひとときでした。うちの教会で行われましたので、出かけなくてすみ、疲れもあまりないようです。
私の「安藤忠雄・三つの教会」も、日本プロテスタント福音派の中では、ほとんど話をする人も考えている人もいませんので、レベルはそれほど高いものではありませんが、まあ、面白いものであったと思います。安藤忠雄の教会建築は、日本プロテスタント福音派の会堂としてふさわしいのか、悩ましいところなのです。勿論、建築のクオリティーそのものには問題ないのですが、クオリティーの高い分、会堂建築としての危険性ははらんでいるのです。つまり、日本プロテスタント福音派は、安藤忠雄の空間を越えられるのかと言うことでしょうか。もっと分かりやすく言えば、特に会堂に対する神学もない日本プロテスタント福音派の教会は負けるだろうな、と言うこと。
また、いつものように岩崎先生の講義、昨夜は「初期移民の信仰と教会−ピューリタンのアメリカ」と言うものでしたが、やはり驚きの学びでした。
言うまでもなく、新天地を求めていったイギリスのピューリタンたち、特に、メイフラワー号のピルグリムファーザーズ(Pilgrim Fathers)の人々が有名ですが(日本でも、どんな社会の教科書にも載っている)、当然と言えば当然、私たちが単純に知っている程度の問題、歴史ではなく、かなり複雑な経緯を通してなされたことを改めて教えていただき、驚いていることです。
まあ、それでも単純に言えば、ハーバードに代表されるWASP(White Angro-Saxons Protestant)に集約されてしまうのですが(これからは違うでしょうが)、この流れとピルグリムファーザーズは、別なピューリタンたちの流れであったことは知りませんでした。
ピルグリムファーザーズとは、勿論、イギリス国教会に対立していった清教徒たちですが(ピューリタン)、分離派と呼ばれ、迫害や弾圧を受けたのではなく、自ら祖国を後にした人々のことでした(信教の自由を求めてではあったのですが)。しかしその後、そうした分離派のピルグリムファーザーズとは別に、非分離派と呼ばれる人々がアメリカへ渡って来るのですが、その人々がその後の中心となって行きます。ピルグリムファーザーズはプリマスの港へ、そして非分離派のピューリタンたちはマサチューセッツ湾へ入植していくのです。ボストンを開き、ハーバードを立て、MIT(マサチューセッツ工科大学)を設立していったのです。
社会性と経済性に富まなかったピルグリムファーザーズは、結局歴史の中でその姿を消して行くのですが、現在、日本にとっても、もっとも影響力があり、関係の強烈なアメリカについて(何しろ原爆だけではなく占領までされていたのですから)、ほとんど何も知らないことに驚かされます。
アメリカの宣教によって始まった日本のプロテスタント教会であったにもかかわらず、すぐに西ヨーロッパ一辺倒に傾いていった神学(東欧でもない)、単なる感情的なものから、わざと背を向けて中国アジアなどに目を向けがちな日本人知識人たちの、対アメリカ研究の怠慢と学校での教育怠慢ぶりはもう一度考えて見るべきだなー
そんなことを考えさせられる昨夜の楽しい集まりでした!
勿論食事も!
木、草、わら‥‥ - 寺田祐一牧師
2009/10/20 (Tue) 08:49:06
追伸
「朝ごとに」にも簡単な書き込みを始めました。
よろしければそちらの方もおたずねください。
朱基徹委員会 - 寺田祐一牧師
2009/10/19 (Mon) 09:31:22
今日は、先週も紹介したのですが、今月の朱基徹委員会が行われる日です。もう一度掲載しておきます。。
日時:10月19日(月) 午後4時〜8時半
場所:Lilys Chapel 吉川福音教会(寺田)
〒342-0056 埼玉県吉川市平沼 1704-1 ?.048(981)2710
地図は http://www15.plala.or.jp/lilyschapel/
午後4:00〜6:00 「初期移民の信仰と教会ーピューリタンのアメリカ」 岩崎孝志師
楽しい夕食(何が出るかはお楽しみ!
午後7:00〜8:30 「教会建築ー近現代(6) 安藤忠雄三つの教会」 寺田祐一師
このシリーズは今回で一旦終わります
最寄りの駅はJR吉川駅ですが、そこからまたバスでネオポリス行き、オアシス行きで約10分、新栄町入り口バス停すぐ横です。タクシーでは八百円ぐらです。
午後3時40分まで、車で吉川駅に迎えに出ています。
遅れた方は、一応教会まで電話をください。運転者がいれば迎えに行けますが、そうでない場合はバスかタクシーでお願いします。歩くと、よい運動ではありますが、1時間ぐらいかかります。
今や世界的に有名な建築家安藤忠雄、彼にはいくつかの教会建築があります。「水の教会」、「風の教会」、「光の教会」です。さて、どんな教会で、どんな理念の上に建てられているのでしょうか。
日本のプロテスタント福音派ではこうした分野が案外弱く、なかなかほかでは学べない貴重なものだと思います。ぜひおいでください。
朝ごとに - 寺田祐一牧師
2009/10/19 (Mon) 12:26:04
今、早天礼拝での聖書箇所はすでに新約聖書コリント人への手紙第一2章まで来ました。今年中に、どうやら5回目を読み終えそうですが、一緒にお読みくださっている皆さん、ご苦労さまです。
ほとんどもう解説らしきものは書けないのですが、最近、簡単なコメントを書いています。よろしかったらそちらもご覧ください。
ちなみに今日のコメントはこんなものでした。
「御霊による 」 寺田祐一牧師
2009/10/19 (Mon) 09:05:59
コリントの教会は、ほかのどの教会と比べても、パウロにとっては実にやっかいな教会でした。まさしく霊的な戦いと言うべきものです。
1章の、自分はほかの誰でもない、イエス・キリストによって任命されたリーダーであること、自分の目めにどう見えようとも、コリントの教会もまた「神の教会」であることを、はっきりと自分の足の根底におかなければならない戦いだったわけです。
そこでパウロは、このコリントの教会との霊的戦いにおいて、ひとつの決心をします。それ以外にこの戦いに勝利する道はないと感じたからでしょう。そしてそれは、使徒パウロ、生涯の戦いの始まりとなったのです。
コリントの教会は、その点で実に大きな貢献を果たしたことになります。でなければ、あの13章は生まれなかったからです。
その決心こそ、「私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです」にほかならず、そして「御霊による」ことだったのです。
だからこのコリント人への手紙、御霊についての宝庫となったのです。
エリック・クラプトンでした - 寺田祐一牧師
2009/10/18 (Sun) 21:00:26
さて皆さん。
誰の詩か分かりましたか。
実は今日のメッセージのために準備したものだったので、わざと謎めいて紹介しました。
詩を含めて、説教に使用した部分を掲載しておきます。
この詩は、Tears in heavenという曲の歌詞です。
皆さんもよくご存じだと思いますが、イギリスの有名なギタリストのエリック・クラプトンがいます。日本にも何度も訪れて公演しています。「ギターの神様」などとも呼ばれるのですが、自身、熱心なクリスチャンであったので、いつもそう呼ばれるのは嫌がっていました。「俺は神様じゃない」と。芸能界というのは難しいものなのでしょうが、クラプトンは、クリスチャンでありながらも、かなり深刻な薬物中毒に陥ります。幸いそれを抜け出すのですが、同じ苦しみにある人々のために、ドラッグ更生診療所「クロスロードセンター」を自分で始めます。この資金捻出のためにクラプトンはオークションに自分の所有するギターを二回にわたり、一六〇本ほど出品します。その中で、彼の使用したギターで最も有名で、長年愛用していた「ブラッキー」と呼ばれるギターも含まれていたのですが、なんと、まさに百万ドル、1億円の価格がつけられ「世界一値段の高いギター」となったほどです。これによって立てられたドラッグ更生診療所「クロスロードセンター」は、今もイギリスで活動しています。
このクラプトンですが、1991年、四歳になる最愛の息子コナーを、自宅であったニューヨークの高層マンションの窓からの転落事故で失ってしまいます。悲嘆に暮れたクラプトンは、しばらく人前に姿を見せなくなったのですが、人々は、また薬物依存になりはしないかなど心配していました。しかしその一年後、そのやり場のない悲しみをぶつけるかのように、「ティアーズ・イン・ヘブン」という名曲を書いて、再び登場して来るのです。「天国の涙」という意味ですが、この曲を聴くと、我が子を亡くした親にしか分からない、重苦しい痛みと失意が、その隅々に表現されているように思えます。
しかし驚いたことに、数年後のテレビのインタビューで、息子の死やその曲の悲しみについて問われた時、クラプトンは次のように語りました。
「ある意味で、あれは悲しい曲ですらありません。むしろ、信仰の曲です。天国にはもう涙がないと言っていますから、再会を夢見る歌なのです。」と。
天国で再会できるという信仰は、人に大きな力を与えます。私たちは、イエス・キリストを救い主だと信じているので、神が目の涙をすっかりぬぐい取ってくださると信じています。また、天国には死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもないと信じています。何よりもすばらしいことは、天国は、私たちが神の御顔(みかお)を仰ぎ見る場所であり、キリストとともに永遠を過ごす場所なのです。
別れを嘆き悲しんで涙するとき、キリストが天国に住まいを備えておられると信じるなら、何とで心が癒されることでしょう。天国には、もう涙はありません。
もし 天国で君に逢えたなら
君は 僕の名前を憶えてくれているかい
もし 天国で巡り会えたなら
僕たちの関係は同じだろうか
僕はしっかりしなくちゃいけない
そして先に向かって歩いていかなきゃ
なぜって僕は
いままだ天国にはいないんだから
もし 天国で君に逢えたなら
君は 僕の手を握ってくれるかい
もし 天国で巡り会えたなら
君は 僕を支えてくれるかい
そのうちに
僕は自分の道を見つけるつもりだよ(君にあうために)
だって僕はまだ 天国にはいけないんだから
でも 時は僕を傷つけるだろうね
つらい時が 僕の膝を折って 地に倒れさせてしまうことも
悲しい時が 僕のこころを打ち砕いてしまうこともあるさ
そして お願いだから お願いだから、と切に叫ぶ時も
でも このドアの向こうに
安らぎが待っていると 僕は知っているんだ
そして天国ではもう 涙なんか流さなくていいだって そう僕は信じていさるさ
もし 天国で君に逢えたなら
君は 僕の名前を憶えてくれているかい
もし 天国で巡り会えたなら
僕たちの関係は同じだろうか
僕はしっかりしなくちゃいけない
そして先に向かって歩いていかなきゃ
なぜって僕は
いままだ天国にはいないんだから
演奏をお聴きください - 寺田祐一牧師
2009/10/18 (Sun) 21:03:30
多くの人々が誤解しているのですが、この曲は息子の死を悼んで作られた歌ではありません。この曲に込められた希望によって、クラプトンが再び立ち上がるために作られたものだったのです。
クラプトンは、あまりにも大きなショックのために、自宅に引き篭もってしまいましたが、この曲を作ることで乗り越えるのです。
黙示録は、たとえ信仰者であっても、この地上にあっては、苦しんだり、悲しんだり、苦労せざるを得ないことを教えています。しかし、そうした人々に送られたヨハネからの励ましの手紙です。
いいえ、神様からの、主イエス様からの慰めそのものなのです。
だから、しばらく悩んだり苦しんだら、もう止めて涙をぬぐい、祈り、そしてイエス様のみ業を待ち望みなさい。がっかりしないで頑張りなさいと、そう言っているのです。
ここで聞くことが出来ます。
http://www.youtube.com/watch?v=AscPOozwYA8&feature=fvw
http://www.youtube.com/watch?v=_qQ_pQAgKS8&NR=1&feature=fvwp