吉川福音教会(BBS)
日曜日の準備
- 寺田祐一牧師
2009/11/27 (Fri) 22:24:46
明日はも土曜日、一週間はあっという間に過ぎました。退屈や寂しさなどまったく感じることはありませんでした。むしろもっと休んでいたところです。
しかし、もう日曜日、礼拝の準備はしなければなりません。大変だと思うこともありますが、それよりも、きちんと準備しなければという緊張感のほうがつよいでしょうか。
今度の日曜日はもうアドベント、待降節の大一週となります。つまり、今年ももう残るところ一ヶ月ということです。少しそのことを念頭におきながら考えて見ましょう。
そういえば、午後の教会学校でもお話しする予定でした。しかも「愉しいお話」をすると公約していたけなー‥‥
頑張って準備しなければ。
何もしないのは愉しい
- 寺田祐一牧師
2009/11/26 (Thu) 23:30:20
今日も家でごろごろして過ごしました。
何もしないのはつらいと言う方もいますが、私の場合、たぶん、生来の怠け者、だらしない性格によるのだと思いますが、何もしないでいるのがちっとも気にならず、どうも、何日でもいられそうです。
基本的には寝ているのですが、ふと本棚に目を向けて、ローマ人の歴史などをぱらぱらめくってみたりします。ご飯は面倒くさいので‥‥
そのほかは、普段あまりじっくり見れないテレビなどをぼんやりと見ています。ふーん、結構勉強になりました。特に「事業仕分け」のニュースは、確かに面白いものです。
本当は、今日この問題を少し書いてみようとも思ったのですが、せっかく休んでるのにと、止めました。
SF好きの私にとって、科学の重要性と、それに対する先行投資がいかに大事かは、誰よりも強く感じていると思います。
しかし、仕分けによって予算削減の決定が出されてしまいました。これに対し、ノーベル賞受賞者たちを中心に、科学者たちが猛烈に反発し、大人とも思えない悪口雑言で、激しく仕分け人たちを罵倒していました。いくら気に入らないからといって、あんな言い方で訴えが通るのかなー 、私が仕分け人なら、むしろ逆効果で、返ってあんな人たちに未来は任せたくないなと感じました。いくらノーベル賞といっても、あんな柄の悪い奴らに負けるなというのが私の単純な印象でした。まあ、今日はここまでにしますが、この際、科学者たちはもう一度自分の置かれている立場、役割について考えていただきたいものです。
仕分けしている人たちが、そんな反発の内容ぐらい知らないはずがない、分かってやっているはずで、だから問題はほかにあるぐらい気づかないのはおかしい。仕分け人をまるで馬鹿扱い、素人扱いしているあなた方科学者の皆さん、何者なのでしょう。まずあなた方が仕分けされるとよいと思います。
多分この書き込みに返答は来ないと思いますが、どうも科学者側の言い分傾いている、マスコミ報道に影響されている方々には不快かも知れませんね。
でも私は、問題は科学ではなく、今それを担っている(と思っている)科学者側にあると考えています。
この根底にある問題についてはまたいつか、体調が回復してから。
だいぶ回復 - 寺田祐一牧師
2009/11/25 (Wed) 22:53:10
今日も一日お休みしていたのですが、水曜祈祷会をお休みする訳にもいきませんので、なんとかテキストは作って先ほど終わって戻って来ました。月火水と休んでいたので、少しつかれもとれ、なんと守ることが出来ました。
しかし、牧師が弱るとかなり影響するようで、祈祷会には四人しか来ませんでした。これは多分新記録で、初めてのことでした。
ただもう、様々なやむを得ぬ理由がかさなったことで、教会の衰退、問題を現しているわけではありませんので、残念ではありますが、がっかりすることではありません。来週にはみんな元気に集まることでしょう。
今日の区域もお休みにしていただき、来週にしていただきました。金曜日の区域もそぅしてもらいましょう。やれば出来るでしょうが、そのようにちょこちょこやってしまうところに、どうやらストレスやしつこい疲れが残ってしまうようです。少し動けても、一旦きちんと休んでしまうのがよさそうです。今週いっぱいは何もせずに、12月へと続く働きのために回復しておくことにします。
このBBSは、簡単にでも書き続けて行く予定です。
お休み - 寺田祐一牧師
2009/11/24 (Tue) 17:07:24
先ほどお絵かきの時間が終わったところです。
どうしようかと思ったのですが、H兄が、せっかく楽しみにしているので、起き上がって行くことにしたのです。H兄は絵手紙を何枚か書いておられましたが、今日は、私は脇でそれを見ていました。花の名前はよく知らないのですが、たぶんシクラメンで、いただく人はきっと喜ぶことでしょう。
ちょっと疲れはたまっているようなので、今日も早天礼拝はお休みにしました。今週いっぱいそうしようと思います。以前なら無理にでも行くのですが(まあ、文字通り這ってでも)、これからクリスマスシーズンに向けてかなり忙しくなることもあり、今はそれをすると返って迷惑をかけてしまうので、我慢することにしました。初めてのことです(勿論、遅刻はたくさんありますよ!)。
そこまで無理にして早天礼拝を休みたくない理由はいくつかあります。
一番は、私の問題ですが、一旦休んだり止めてしまうと、ほとんど再開出来なかったり、再開するにはそうとうなエネルギーを有するからです。信徒さんも、以前は来ていても、これもまた理由は様々ですが、いらっしゃらなくなります。見ていると、たとえまた来られるようになっても、或いは少し工夫したり無理をすれば来られるのですが、すでにそれをする力や思いが薄れてしまっていることがほとんどです。勿論これは責めているのではなく、そういうものだと思います。続けて行くのも難しいのですが、実際、再開するのはもっと難しいものです。しかし、どなたかが早天礼拝をやってみよう、再開しようと考えた時、変わらずに行われていることは、どんなにかそうした方々への恵みとなることでしょうか。実際、何人もの方々が救われ、助かって来ましたね。
また、早天礼拝での祈りは、これまでの体験ですと、実に多く聞かれるのです。分かりませんが、主は朝の祈りをお好きなのかも知れません。とにかく聞かれるのです。
さらに、毎朝1章づつ読む(うちの教会の場合ですが)、この恵みが非常に大きいということです。ただ読むだけではなく、そこからお話しもします。日曜ごとではなく、毎日の講開説教になるのですが、前回のものがまだ生々しく残っている間に、聞いたりお話しすると言うのは、実に深い理解を助けるものです。こうした聖書通読、通説教?もう五回目も終わろうとしているのですが、聖書の恵みはここにあるなと、つくづく思うからで、こころから続けて行きたいと願っているからです。年数に応じた恵みなのです。
そしてもうひとつ、毎朝必ず歌を歌うと言うことでしょうか。
毎朝、とにかく最低でも1曲、聖歌から賛美します。朝っぱらからですが(幸いうちの教会はどんなに大きな声を出してもご近所迷惑になりません)、精一杯、大きな声で賛美しますので、これだけもずいぶんと力がわいてきますし、よい運動にもなります。普段運動不足の私にとっては、家から毎朝教会へ来て(自転車で)、大声を出すのは、毎朝同じ時間に起きることと同時に、貴重な健康管理ともなっているのでしょう。
早天礼拝にデメリットはまったくなく、天に召されるまで、どんなことがあっても守りたいのですが、倒れて中断してしまうなら、モチベーションを保ちながらお休みするのもやむを得ません。とにかく今週は、悔しいのですがお休みにしましょう。
ずいぶん偉そうですが、限界のいっぱいある、田舎の牧師のがんばりどころといったら、もうこれぐらいかも知れないのです。
うーむ、明日の区域ですが、どうしようかな‥‥
私の方からお願いするのは初めてですが、連絡して、来週に変更していただきましょうか。
牧師は暇? - 寺田祐一牧師
2009/11/23 (Mon) 17:47:21
4月ぐらいから休みなしの日が続いたので、さすがに息切れがして今日は一日にお休みとしました。そういうと変に聞こえるかも知れませんが、仕事以外でどこかへ行ったり遊びに行ったりすることがありませんので、年中無休なのです。基本的には早天礼拝は毎日ありますし、礼拝も祈祷会も様々な諸集会もお休みはありませんので、連休も祝祭日も関係がなくなってしまいます(ですから今日が休みなのか何の日なのか、正直なところ分からなくなってしまいます)。むしろそんな時ほど、内外に色々な集会があって出かけたり、忙しいのが牧師の仕事でしょうか。
ですから、油断すると、いつの間にか目に見えないストレスや疲れが溜まってしまい、ある日突然倒れる、という事態が起こります。以前に何度かは、そうした体調管理に失敗していますので、今日はそこまでではありませんでしたが、このまま続けて行くとそうなる危険性を感じたので、それこそ思い切ってお休みにしたのです。つい先ほどまで、何もしないで寝ていました。私はいつも、怪我や具合が悪くなった犬が小屋に引っ込んで回復するまでじっと待っているように、食事もせずに寝ることにしているのです。
その甲斐あってか、少しからだが楽になったようです。
そこでこのBBS、休むのも癪なので、何でもいいから書こうと、始めたところです。
ですから、特にテーマを決めていませんので、思いつくままなのですが、牧師も休みは必要だと言うことぐらいでしょうか。
先週の朱基徹委員会、講師の笹川先生とお話をしている時、先生が「色々と書きたいことや、まとめておかなればならないことがたくさんあるんですよねー」とおっしゃいましたので、「そうなんですよねー。私たちもなかなかまとめられないで困っています」とお話したところ、「え、牧師は暇なんじゃないですか」と言われてしまいました。
そこで、つかさず私が「いえ、それは誤解です」と反論したのですが、「ええ、ええ、そうですか。暇に見えるけどなー」とまたまた突っ込んで来るので、私もまた「いいえ、それは誤解です」と、さらに確信をもってお答えしたのを思い出しました。
なるほど、暇に見えるか‥‥
これはふたつのことを意味しています。
ひとつは、「牧師が暇に見えることはいいことだ」と言うこと。
中には、いつも忙しそうにしていて、お声をおかけするのもはばかられる、お偉い牧師先生もたくさんいらっしゃいます。名刺の裏まで色々な肩書きが書いてあれば、そのと通りで、本当にお忙しいのでしょうね。お会いするのも難しい‥‥ 、「アポをお取りください」と言われてしまいます。名刺ひとつ持たない牧師にとっては夢のような立場です。
その点、私もそうですが、イエス様とはいつでもお会い出来ます。勿論アポなしで!
何だ、結局は暇なんじゃないか。
いいえ、そうではありません。いつでもお会いする必要のある人とは会うのがまずは一番の仕事でしょうかね。だからいつも声をかけやすく、暇そうなのは大事かも知れません。
とはいっても、私のように暇そうな牧師には会っても意味はないし、第一、あんな怖そうな顔をしているんじゃ‥‥
世の中では、「仕事は忙しいところに依頼しろ」という格言があるのですが、しかし、それはビジネスの世界のことであり、たぶん、教会は違うかも知れませんよ。
「相談は暇な牧師にしろ(いや、暇に見える、ですね)」 ですかね。
もう一つは、実際に暇ではないということです。
パウロに言わせると、イエス様から任命を受けてしまったらもう、自分の人生を時間もないということです。これにはちょっと、分かっていてもかなりつらいところがあります。だからパウロは、「私にとってはもう、この世を去ってイエス様の元へ行くのが一番よいことで、願っていることです」と告白し、「でも、あなた方のためには、もう少しこの地上にとどまっているいるのが益なのですね」と言っていました。
ですから、パウロにとってはもう、この世にいるのは自分の人生でもなく、自分の時間を過ごしているのでもなく、ただもう
「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい」[コリント人への手紙第一 10章31節]
だったのです。パウロのこうした生き方の質の高さや充実度には足下にも及びませんが、基本的には牧師も、ひいてはクリスチャンたちは同じなのです。
暇はないのですよ。
「白黒」 - 寺田祐一牧師
2009/11/21 (Sat) 12:49:50
ベンジャミン・フランクリンと言えば、ワシントン、リンカーンなどと並ぶ、アメリカ屈指の政治家のひとりです。なかなか面白い人物で、何にでも興味を持っていました。
雷が電気であることを確かめようと、タコを飛ばして証明したことなどは有名ですが(むしろ自分が感電しなかったほうが珍しい)、勿論そんなことばかりしていた訳ではありません。なにしろアメリカ合衆国独立の立役者ですから。
興味の方向はたぶん人にあったのだと思いますが、この関係をうまく築けなければ何も出来ないとは考えていたようです。何であれ、人の中で暮らし、仕事し、それなりにうまく生きて行くには、人との関係をよいものにしなければ出来ない。特にまとめ役のリーダーにとって、それがうまく出来なければ何も達成出来ないと。
そこでフランクリンは、こんなことを回想していました。
「わたしは、人の意見に真っ向から反対したり、自分の意見を断定的に述べないことにした。決定的な意見を意味するようなことは、たとえば、?確かに″とか?疑いもなく″などということばはいっさい使わず、その代わりに「自分としてはこう思うのだが……」とか「わたしにはそう思えるのだが……」ということにした。
相手が明らかに間違ったことを主張しても、すぐそれに反対し、相手の誤りを指摘することをやめた。そして、「なるほどそういう場合もあるだろうが、しかしこの場合は、少し事情が違うように思われるのだが……」というぐあいに切り出すことにした。
こうして、今までのやり方を変えてみると、ずいぶんと利益があった。人との話し合いが、それまでよりもよほど楽しく進む。控え目に意見を述べると、相手はすぐ納得し、反対する者も少なくなった。わたし自身の誤りを認めるのが大して苦にならなくなり、また、相手の誤りも、たやすく認めさせることができるようになった。
この方法を用いはじめたころは、自分の性質を抑えるのにずいぶん苦労したものだが、しまいには、それがやすやすとできるようになり、習慣にさえもなってしまった。おそらくこの五十年ほどの間、わたしが独断的ないい方をするのを聞いた人は、だれもいないだろう。新制度の設定や旧制度の改革を提案すると、みなすぐに賛成してくれたのも、また、市会議員になって市会を動かすことができたのも、主として、第二の天性となったこの方法のおかげだと思う。もともとわたしは口下手で、決して雄弁家とはいえない。ことばの選択に手間取り、選んだことばもあまり適切でないことが多い。それでいて、大抵の場合自分の主張を通すことができたのである。」
まあ、フランクリンならではの話だと思うのですが、それに関連して「議論したり反駁したりしているうちに、相手に勝つようなこともあるだろう。しかしそれはむなしい勝利だ。相手の好意は絶対にかち得られないのだから」とも言っています。
アメリカを勝利に導くために、フランクリンほどの人が、これほどの努力をしたのですね。私など足元にも及ばない者ですから(やっても負けるので‥‥ )、基本的には同じような方法とならざるを得ないのですが、まあ、言ってみればその場で「白黒」を出さないということでしょう。 私の場合、フランクリンとは違って情けないことですが、案外結果はついて来るかも知れませんね。
以前のフランクリンは、同じく「どんな馬鹿でも、あら探しをしたり、難癖をつけたり、苦情を言ったりは出来る‥‥ 、そしてたいていの馬鹿がそれをやる」といった性格だったようです。私もまたこの通りの人間で、ずいぶん損もし、残念ながら回りから人を離れさせてしまいました。今もうまくいっているわけではありませんが、負け続けて来た結果、自然にそうなってしまいました。
「負けるが勝ち」などといった恰好いいものではありませんが、仲良くしたいだけですかね。
網を下ろして - 寺田祐一牧師
2009/11/20 (Fri) 10:39:48
今日はまた、早天礼拝に残念ながら大幅な遅刻をしてしまいました。せっかくガラテア人への手紙に入ったのに、いつもお出でくださる皆さんには大変申し訳ないことです。明日、少しまとめてお話ししましょう。
さて、うちの教会もご多分に漏れず、財政的には大変厳しい状況で(教会の皆さんも毎日四苦八苦しておられます)、とても収穫感謝などという気分ではないのですが、明後日の日曜日は「収穫感謝礼拝」となっています。今、その準備をしているのですが、はてさて、何をお話ししたらよろしいのでしょうか。
勿論、言うまでもないことですが、「主の恵みは私たちには十分であり、不足なことはない」のです。しかしそうは言っても‥‥
単純なところでお恥ずかしいのですが、ルカの福音書五章、一晩漁をしても一匹も釣れなかったペテロが、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」という、イエス様のおことばの通りにしたら「たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった」ところからお話ししてみましょうか。こんな時期は、きっと単純で簡単なお話しがよいのかも知れません。
イエス様の言う通りにすれば魚は捕れる!
これは真実です。その通りのはずです。しかし、なかなかうまく行かないのはイエス様のせいだろうか‥‥
いや、おことばの通りに出来ない‥‥
とにかく、もう始まったことです。
網を下ろし続けたいと思います!
雪や こんこん - 寺田祐一牧師
2009/11/19 (Thu) 08:55:17
おや、今日は「雪や こんこん あられや こんこん 降っても降っても まだ降り止まず」、正確な歌詞は分かりませんが(流れているのは曲だけなので)、昨日の「ペチカ」とは違っています。そう言えば、どうも毎朝違っていたのかも知れません。「トロイカ」や「村の鍛冶屋」などがあった気がします。たぶん冬の童謡集かなんかがあるのでしょう。
いずれにしろ、なんだか懐かしく、昨日同様「おい、灯油屋!」と.思わず声をかけたくなります。
今朝もやはり寒くて、いつも思うのですが、早天礼拝が終わって、むしろ7時から9時ぐらいまでの間が一番冷えるような気がします。ですから、今一番寒くて、残念ながらストーブをつけないと、寒さでくしゃみだらけ、大連発となってしまいます。今はストーブをつけてもまだ寒いぐらいで、くしゃみが出そうなのを押させて書いています。まあ、言ってみれば「涙ぐましい努力」と言ったところでしょうか。
しかし、日さえ照っていれば、日中は暖かく、昨日もぽかぽかした気持ちのよい一日ではありました。さて、今日はどうでしょうか。あいにく曇っているようなのですが‥‥
昨夜の祈祷会では、いつものようにリーダーたちのために祈りました。
「変わらざるを得ない世界の中で迷う、家庭、学校、会社、地域などのリーダーのために」が中心ですが、やはり最近は特に新しい政権のために祈っています。
「今、ニュースなどで盛んに話題となっている事業仕分けなど、色々と頑張っているようですが(批判など気にせず、まずは多いにやったらいい。自民党の批判など、引かれ者の小唄にしかなっていません)、やはり沖縄の基地移転問題は新政府の要のように思います。
いずれ政治ですから、なんだかんだ言っても現実的決着となるでしょうが、どう決着しようと、打ち上げた理念だけは最後まで降ろさないで欲しいのです。たとえこれまで通りの結論となったとしても(おそらくそれが現実です)、沖縄からの基地移転、削減の旗頭は絶対降ろして欲しくないのです。出来る出来ない以前の、目指す方向、人間のビジョンの問題だからです。
特に、戦中戦前、少なくとも韓半島を中心に、アジアで行った傍若無人な数々の暴虐に対しては、責任逃れをせず、きちんと対応しなければなりません。でなければ、結局最後はそこがアキレス腱となってほころびをうんでしまうからです。
沖縄の基地問題は、何も詳しい歴史を知らずとも、ニュースを見ただけでも明らかで、最低限、沖縄の人々に対する礼儀であり当然の謝罪です(こう言うと、いつも過ぎたことにこだわって無茶なことを言う分からず屋、偽善者のように見られますが、本当にとんでもないことです)。「申し訳ないが、戦中戦前同様、私たちの安全のために、沖縄の皆さん、犠牲になってください。私たちは犠牲を払いたくないので」と言うのが、現在の私たちのスタンスですが、これに「No!」と言う新政権のこだわりは正しいのです。問題はむしろこだわり続けられるかどうかです。しかしそれは勿論、今も明らかなように(たぶん現実的には無理でしょう)、言うまでもなく生やさしいものではありません。
では出来ないことは言わず、黙っていればいいのか。
いいえ、そうではありません。リーダーたちには歯を食いしばって、命がけで頑張っていただきたいものです。今の時代にリーダーにつこうとする者は、必ずその覚悟が要求されます。それが嫌なら、リーダーに立つべきではないのです。
もし誰かが、それでも立ったなら、当然のことながら、そんな人々のために祈る義務があるでしょう。
今、日本の教会の中でももめている、まさに教会の生命線にかかわる問題に対しても、それと真っ向から戦おうとしている人々には祈りが必要ですね。
雪の降る夜は - 寺田祐一牧師
2009/11/18 (Wed) 09:11:49
「雪の降る夜は 楽しい ペチカ ペチカ燃えろよ お話しましょ 昔 昔よ 燃えろよ ペチカ」、当時のモダンを表した名曲です。
ご存じ、北原白秋の「ペチカ」ですが、この曲を流しながら、灯油の販売車が朝から回るようになりました。選曲がなかなかうまいもので、つい「おい、灯油屋さん」と声をかけたくなってしまいます。勿論、それだけ寒さが増した来ているのですが、さすがに今日は毛布を膝掛けするだけでは駄目で、ついにストーブを入れてしまいました。厳しい財政難のおり、出来るだけ我慢しようよ思ったのですが、また風邪などを引いても返って被害も大きいので、思い切ってつけることにしたのです。
なんだか貧乏くさい話ですが、それどころか、一缶1500円もする灯油ですから、真剣にお考えの方も多いはずです。年配の方々にはかなりつらい状況のはずですから、ぜひ援助の手、いわゆる「薪炭手当」のように、たとえば六十歳以上の家庭には補助なども必要に思います(無理でしょうが‥‥ )。風邪やインフルエンザなどで医療費が嵩むより安くつくのでは‥‥
今は暖房費も使わずに節約しようとする年金家庭も多いようで、こころの痛む話です。冬の寒さぐらい、「雪の降る夜は 楽しい ペチカ」と、震えずに過ごしたいものです。
経済不況は、いつものことですが、まず真っ先に貧乏人を襲い(私もその中の一人ですから)、回復したとしても、もっとも遅く恩恵を受けるもののようです。悔しいなー
対処の方法などなく、自分のふがいなさを嘆くほかはありませんが、競争社会の非情さでしょう。しかし、あまりその格差が開くと、その社会そのものが成り立たなくなることも肝に銘じておかなければなりません。負け組あっての勝ち組なのですから、もし負け組が滅びてしまったら‥‥
第二十五条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
今、新しい政権は四苦八苦しているのでしょうが、日本国憲法にあるこの大原則、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を保証した条項を忘れないで頑張って欲しいものです。
これはまた当然なこととして、在留異国人、寄留者にも及ぶべきであることを忘れるなというのが神様のご主張です。このような憲法を有する国において、寒くて凍え死ぬなどもってのほかです。
おお、寒い‥‥
Re: 雪の降る夜は - 東江公人
2009/11/18 (Wed) 15:46:09
ついにストーブに火を入れましたか?
こちらは、もう少し遅くなるようです。
わたしの周りでは、入れたと言う声が聞かれますので、我が家が遅いのでしょう。
静岡のほうが暖かいからでしょうか?
武士は食わねど‥‥ - 寺田祐一牧師
2009/11/17 (Tue) 13:01:34
最近は暖かかったり寒かったり、なんだか交互にやって来ますが、今日は、昨日までの暖かさとは打って変わって冷たい雨の一日となっています。
「武士は食わねど高楊枝」、昨日、お昼に行われた野寺先生の博士号取得祝賀会で登家先生がおっしゃったことばです。勿論、皆さんよくご存じの言葉で、今はどちらかと言うと、腹を空かしているくせに、いかにもうまいものをたらふく喰っているかのように、見栄を張る滑稽な貧乏武士をからかった言葉でしょう(たぶん、本来は反対の意味なのでしょうが)。
野寺先生が、韓国で勉強なさっている時、まあ、日本の牧師としては当然ながら、学びもさることながら、生活上の困窮に悩まされていました。お子さんも二人で、食料の買い出しもままならない状況が続いていたようです。お世話になっていた韓国の教会でも、日本人は豊かだからと、ほとんどサポートしていただくことは無かったそうです。確かに日本は豊かであったかも知れないし、遊びに来る日本の観光客のお金の使いぶりを見ても(そう言えば昨日ですか、釜山の私設射撃場の火事で日本人が亡くなっていましたね)、お金持ちと思ったのでしょうが、実際、日本の牧師ほど貧しい人種もなく、まさに、野寺先生釜山での生活は「赤貧洗うがごとし」だったのです。日本からのサポート体制もあったのですが、それを支えようとするメンバーもまた日本の牧師たちですから、残念ながら自分の生活でいっぱいで、そのサポートも満たされないままだったのです(私自身、本当にサポートしたかったのですが、やはりままならず申し訳なかったと今も思っています)。日本からのサポートでは、韓国の困窮家庭よりも低い水準にならざるを得なかったようです。
そんな状況の中で、その実情を韓国で訴えていれば、或いは韓国の人々もそれなりにサポートをしてくださったのでしょうが、野寺先生たちはそれをしませんでした。いわば、神様にのみ祈って乗り越えられたわけですが、いつもカラスが助けてくださったそうです。韓国のクリスチャンたちも、まさか野寺先生たちがそれほど大変な生活をしているとは思いも寄らなかったようですが、それは先生たちが、まさしく「武士は食わねど高楊枝」を本当にいい意味で実践なさっていたからでした。それで三年間を過ごされたわけですが、これは、言葉で言うほど簡単なものではないことを、同じ境遇にある日本人牧師としてはよく分かるし、頭の下がる思いです。まあ、立派な先生と言うことが出来るでしょうが、それがある意味では実によいあかしとなって、今も韓国は勿論、日本でも篤い信頼の元となって、私も含めてですが、慕っている方々が多いのです。
当然のことながら、神様はご存じのことですから、必ずふさわしい顧みをお与えくださるのですが、今回の博士号(Th.D神学博士)も、それは大変なことでしたが、本当によく頑張られて取得なさったのです。これには、朱基徹委員会でも何度もお招きした高神大の李象奎教授、そして黄任哲教授などの、素晴らしいサポートがあったのですが、これもまた神様のご配剤であるとしか言いようがありません。様々な意味で、今回の博士号取得は、単に野寺先生のみのことではなく、神様の栄光の現れであり、私たちにとっても大きな喜びであると同時に、悔い改めとチャレンジであったのです。まさに、主にある「クリスチャンは、食わねど高楊枝」であった訳です。
韓国滞在の三年間を終える時、韓国でも経済危機があり、そのために教会も試練に会うのですが、海外宣教などのサポートが縮小されようとしていました。そんなおり、野寺先生が講師をなさる機会があったのですが、もう日本へ戻るので、いいかなと思い、韓国での三年間が、経済的にはいかに苦しいものであったかをあかしし、それでも止めずに来られたことが本当によかった、「神様の働きは、お金があるからやるのではなく、なくてもやるところに意味がある。止めてはいけない」とチャレンジしたそうです。
何も知らなかった韓国の教会の人々が、みんなびっくりして、「知らなくてすいませんでした」と挨拶に来て、色々とサポートしてくださったそうです。きっと、日本での再出発のために必要だったのでしょう。主は生きておられます!
恥を忍んで‥‥ - 寺田祐一牧師
2009/11/17 (Tue) 13:04:57
そう言えば使徒パウロ、今朝の早天礼拝、コリント人への手紙第二11章で同じことを言っています。しかし、そうした現状はあなた方は知るべきですと、恥を忍んで、自分たちがどんなにつらく苦しい状態であったかを書きますと言っています。つらさを訴えたのではなく、後にも起こるこうしたことに対し、少なくともクリスチャンは鈍感ではいけないと戒めているのです。特に、豊かさのなかで貧しさを「武士は食わねど高楊枝」とやせ我慢している日本の先生方に対し、もう少し注意を払って見てくださいと言っているのかも知れません(幸い、私は本当によくしていただいているので感謝しています)。
とにかく野寺先生の博士号取得、おめでとうございます。
それから、わざわざ長州からお出でいただき、祝賀会を主催し、素晴らしい証言をなさってくださった結城先生、ありがとうございます。無事におつきになりましたか。
先生の、長州でのおお働きのために祈ります。
昨夜の集会 - 寺田祐一牧師
2009/11/16 (Mon) 08:47:47
昨夜は、しばらくお知らせして来た「朱基徹牧師記念の集い」が赤羽聖書教会でありました。いつも通り、そんなに多くない人々でしたが(6,70人‥‥ )、恵みのうちにと言ってよいでしょうが、無事に終わりました。まあ、ホッとしているところです。
帰りが少し遅くなって、今朝も早天礼拝でしたから、多少疲れていることもあり、残念ながら簡単にまとめてお話しすることは出来ません。簡単にまとめられるほど単純ではなかったことと、まだ私の中でよくまとまっていないこともあります。いずれ、またニュースレターやここで紹介して行くことにしましょう。
結城先生のお話は、日本のキリスト教会における「仕方がなかった」という大義名分のうちにすべてを終わらせ、赦して来てしまった体質について、それと敢然と立ち向かった人々との対比のうちに、改めて教えていただきました。これは原稿をいただいていますので、いずれニュースレターでご紹介することにしましょう。
笹川長老のお話しは、結局「裁判員制度」までをめぐって、2時間半にも及び、実に興味深いものでした。大学の先生でもありますから、お話しが上手ということもあるのですが、むしろ取り扱われている題材の面白さに、誰一人飽きる者もだれる雰囲気もなく、このまま終わるのがもったいないほどの集中ぶりでした。その中には経験豊かな教会リーダーたちもいらっしゃいましたが、たぶん初めて聞く話だったのでしょう、盛んに頷きながら聞いておられました。私も、それなりには韓国に対して知っているつもりでしたが、「法学」という(笹川長老は「憲法学者」です)、まったく別な観点からの切り口、また、それを通して深く韓国と関わって来られた経験からのものでしたので、驚くと同時に、大変興味深いものでした。私のこれまでの断片的知識であったものが、何かひとつにつながるような感じだったと思います。また、法律という、ある意味ではクールな観点からのアプローチには、妙な思い込みや決めつけがなく、説得力のあるものでした。
特に国際法の問題においては、本来国際法の根底には「交隣」(隣国を助ける)という、いわば今の民主党のスローガンのような「友愛」の精神があるというのが印象的でした。近代は、むしろこれを持って始めるべきであったのが、この「交隣」の精神を忘れ、いわゆる「国益」と称する自己中心主義の道具に使われて行ったところに問題があったとのことでした。早晩国際法は力の論理の大義名分化とされ、日本においても、これを笠に着たアジア侵略の正当化、認めさせて行くという非道を繰り返して行くこととなったのです。
最近の知識人たちによる、日本のアジア侵略は植民地支配ではなく、国際法上にの取った条約によるものだとの発言の根拠となっているものでした。しかし、笹川長老の、軍という力を背景とした条約締結は無効、国際法上違反としておられました。
裁判員制度については、ほとんど時間がなかったのですが、実に明確にそれは憲法違反であると、まさしく憲法学者として明言しておられました。カトリックが、これまた明確に不参加を表明したことを評価し、プロテスタント諸教会も、もっと議論を展開して不参加の意思表明をなすべきとのことでした。仮に、百歩譲ってそれを認めたとしても、在日の人々(裁判は受けても裁判員にはなれない)、死刑制度を含むこと、裁判の不均衡などなどの問題点が多すぎることを指摘しておられました。
ではどうするのか。自分自身に裁判員の依頼が来た時、今のところ、行政がどう判断するかは分からないが、自分自身のはっきりとした意思表明をする以外にないとのことでした。嫌な嫌だと。
今日はこれから、同じく赤羽聖書教会に集まって、今年野寺先生が取得した「博士号」に対する祝賀会を行うことになっています。昨日一部で証言してくださった結城先生の発案でしたが、勿論そんなに大それたものでなく、朱基徹委員会らしいささやかなものです。集まれる者だけ集まって会食をしようというものです。近くの和食屋の予定。
昨夜は、それ以外に、集会が終わってから、教団内に起こった問題について話し合う集まりがあったのですが、私にはよく分からないので、残念ながら失礼させていただきました。お陰で少し早く帰れましたので、今朝また出かけることが出来るようです。
今朝はもう簡単に書こうと思ったのに、書き始める長くなってしまう‥‥
「朝ごとに」も書いておきましたよ。
私はこう考えます - 寺田祐一牧師
2009/11/14 (Sat) 09:50:55
今朝もまた、明日の準備で忙しいのに、コリント人への手紙第二9章を読んで書きすぎてしまいました。仕方がない、今日もここに掲載しておきましょう。
それにしてもこの手紙、面白い‥‥
皆さんにうまく伝えられるだろうか‥‥
私の母教会の牧師は、金サムエルと言って、アメリカからの宣教師でした。目から鼻に抜ける先生で、実にこの世の計算にたけ、お金には細かい人でした。と言うより、無駄なお金は使わない、益にならなければ出さないと考えていたようです。
アメリカへ移民し、ビジネスで成功しようと考えたのですが、人脈を作るために教会へ通ったのです。日本とは違い、韓国人社会はどこへ行っても教会を中心にコミュにテーを作って行くのですが、アメリカの90%以上の韓国人が、信じる信じないは別にして、教会に関係しているそうです。
それで金先生も、神様などまったく信じていませんでしたが、有力な人がいそうな教会へ通うことにしたのです。
その時、金先生が一番頭が痛かったのは、まさしく「献金」でした。
信じてもいない神様に献金するのは、惜しくて惜しくて、自分の家族や家にはいくらでもお金を使うのに、どうしても出来なかった見たいです。しかし、教会に通っている以上、人の目もあるし、しないと言う訳にもいかない‥‥
さんざん考えたあげく、とにかく一ドル献金しようと決めました。いわゆる「一ドルクリスチャン」となったのです。
なぜ一ドルなのかと言えば、礼拝が終わって交わりの時、まあ、日本でもそうですが、コーヒー、紅茶、アメリカではよくドーナツやパンが用意されています。そこでコーヒーを一杯飲んでドーナツを一個食べれば、ちょうどミスター・ドーナツで一ドル食べたのと同じだ、そう考えれば損はないと計算したのです。
さすがは無駄なお金は使わない金先生、実に見事な計算で、私のような中途半端な者には考えも及ばなかったことです。
しかし、あら不思議、そんな金先生をあざ笑うかのように、生きておられる神様は金先生をお打ちになったのです。そしてついには持っているものすべてを捧げさせ、ついには命までかけさせる、実にこの世を駆け抜けるようにして御元へ召されてしまいました。
今日の、コリント人への手紙第二9章を見ると、コリントの人々はまさしくそんな人々のようです。自分に益にならない金は出さない、実に計算のはっきりとしている人々で、さすがは歓楽の町、コリントの町に立った教会だったのです。ですから、実際の裏付けもない、夢のようなことばかり言っているパウロには本当に反発したようです。100円捧げたら1000円になる保証はどこにある、せっかく神様を信じても、世の中は金だというところからはなかなか抜け出せないでいたのです。
エルサレム教会援助のために始まったアジア、ギリシャ諸教会における献金活動、昨日も書いた通りですが、最初、コリントの教会もまた賛同していました。しかし、いざ集めるという段になると、急に惜しみはじめたのです。
9:6 私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。
9:7 ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。
普段、どちらかと言うと、一般的な献金の心構えとして理解し、用いていたのですが(勿論、それでよいのですが)、事情はだいぶ違っていました。
パウロは、第一の手紙同様、お金のことについて書くのは本当に嫌だったでしょう。
しかし、約束したものを惜しみ始めたコリントの教会に対し、これではいけない、これから始まって行こうとする諸教会のために、きちんと集め、教えておかなければならないと考えたのです。
この手紙の目的は、これを書くためだったのですね。これだけの紙数を費やし、様々なことに配慮しながら、心の底から祈りつつ、書いています。
伝えたかった - 寺田祐一牧師
2009/11/14 (Sat) 09:52:48
9:4 そうでないと、もしマケドニヤの人が私といっしょに行って、準備ができていないのを見たら、あなたがたはもちろんですが、私たちも、このことを確信していただけに、恥をかくことになるでしょう。
9:5 そこで私は、兄弟たちに勧めて、先にそちらに行かせ、前に約束したあなたがたの贈り物を前もって用意していただくことが必要だと思いました。どうか、この献金を、惜しみながらするのではなく、好意に満ちた贈り物として用意しておいてください。
おい、コリント教会、もっとしかりしろと言いたいところですが、その後の歴史を考えると、実に大切な手紙だし、パウロにこんな手紙を書かせたコリント教会の功績は大きい! とも言えるでしょうか。
9:10 蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。
9:11 あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです。
捧げることの意味、祝福と恵みの元であることを教えたかったのですが、我が先生、金サムエル先生もまたこれに気づいた人の一人だったのです。結局、すべてを捧げ尽くして天に帰って行かれたのですから‥‥
先生に後悔も心残りもなかったでしょう。充実した人生でしたね。
コリントの皆さん、これは私もイエス様とお会いして分かったことですがと、使徒パウロは伝えたかったのでしょう。
公同の教会 - 寺田祐一牧師
2009/11/13 (Fri) 08:37:18
今朝は、「朝ごとに」の書き込みが長くなってしまったので、こちらに掲載することにしました。コリント人への手紙ももうすぐ読み終えるのですが、読んで行けば行くほど、パウロの思いが、2000年の時を越えて迫って来るので、つい長くなってしまうのです。
私の話はいつも長いと言って叱られるのですが、申し訳ないと身を縮めています。しかし、あの先生の話は短くてよいとの評価も腹立たしいものです。
余計なことはともかく、掲載してみましょう。
ここには、この手紙の意図と、それに対するパウロの苦悩と決心が滲み出ています。
様々な困難(地震や飢饉)で疲弊しているエルサレム教会を支えるため、アジアの諸教会では、パウロの音頭取りによって募金することになりました。今回の旅は、それを集め、エルサレムの使徒たちに届けるためのものだったのでしょう。
その際、何故そこまで溝を深めてしまったのは分かりませんが、当時、パウロとはもっとも難しい仲だったコリントの教会に対し、パウロはどうしようかと迷っていたのです。この献金を、コリントの教会の人々へもアピールすべきか、それともあえて言う必要はないのではないかと。それでもなくてもパウロは、独裁、いい加減、無責任、ごまかしどと、あらぬ疑いと批難を浴びていたからです。
無論パウロは公明正大で、少なくとも主の前に恥じることはなかったのですが、そのことではこころは痛めていたのです。或いは、しばらく距離を置こうと考えていたかも知れません。
そんな折り、またお金のことで、コリントの人々へ言わなければならないのは苦痛であったと思います(第一の手紙で、教職者の報酬について恥を忍んで書いていた)。今回、コリントの教会へは、わざわざ言わなくてもよいのではないか、すでにマケドニアの人々が一生懸命捧げていてくれるし、それが無くても大きな影響はない‥‥
パウロにしても、面倒は避けたかったのでしょう。
しかし不思議なことに、遣わしたテトスを通して、パウロが強要したわけでもないのに、コリントの人々も協力することになったのです。パウロとは違って、テトスはコリントの人々に受け容れられたようです(このこと自体、教会にとってはかなり面白い問題なのですが、ここでは取り扱いません)。そしてこのことを通して、どうやらパウロのこころに変化が生じます。たとえ何があったとしても、やはりコリント教会も外すべきではないのでないか、これから世界中に立て上げられて行く公同の教会の一員として、きちんと整えられて行かなければならないと考えたのです。「こうして、平等になるのです」と。
使徒としての役割をもう一度意識したパウロは、この問題のためにこの手紙をしたためることにしたのです。そのために、あえてこれまでのことに触れ、少しでも溝を塞ぐべく努力をし、この献金の問題がコリントの人々へも伝わるようにと願っているのです。
さらにパウロは「8:20 私たちは、この献金の取り扱いについて、だれからも非難されることがないように心がけています」と、コリントの人々が、「8:12 もし熱意があるならば、持たない物によってではなく、持っている程度に応じて、それは受納されるのです」と、大した献金もしないことは分かっていたのですが、コリントでは問題になりそうな安全とごまかしについて、その対応の仕方をも示しています。名前は記されていませんが、マケドニアの諸教会からは、篤い信頼をもって任命された兄弟をともなっていくことを明らかにしているのです。
これは、コリントの教会には、いつもこんな問題が起こっていたことを教えているのでしょう。ちょうどアメリカのように、安全対策をうるさく言うところが安全なところではないように‥‥
はっきり命じ、言い切ってもよかったのですが、「こうは言っても、私は命令するのではありません」、そして「この献金のことについて、私の意見を述べましょう」など、パウロとしては、珍しくほかの教会宛には見られない配慮の仕方を示しています。
なんとか生長して欲しい‥‥
パウロの切なる願いがにじみでていますが、コリントの教会もまた、公同の教会、キリストのからだであったからです。
近代国家主義? - 寺田祐一牧師
2009/11/12 (Thu) 11:19:43
なるほど、幅広いリサーチの東江さんならではの視点ですね。
「それにしても日本にも教会があるのに政治家(小沢氏)は見向きもしないとは…
ほとんど政治力としては無視されているのが、日本の教会か…
これでいいのか。それで悪いのか。考えさせられてしまう。」
まさにその通りで、うちの教会も、もう23年になるのに、残念ながら石ひとつ投げ込まれたことがありません。守られて来たのでしょうか‥‥
小沢さんが宗教に関心あるはずがありませんので、東江さんの言う通りでしょう。
日本のクリスチャンたち、日本の風土、特に仏教的?行事などにおびえ、悩みつつ迎合している姿は、言葉を選ばずに言えば、卑屈でみっともないのひとことでしょう。
勿論私も、牧師とはいえ、れっきとした日本人ですので、日本文化?という訳の分からない陰におびえる一人ですから、十分にそのつらさは分かっているつもりです。と言うより味わっています。
ですから責める資格などないのですが、もう少ししっかりあかしして行かなければ、とは痛感しています。
小沢さんたちに、もう少し意識していただけるようにしないとね。確かにお恥ずかしい限りです。
小沢さんが、宗教をどこまでお考えになっているのか分かりませんが、靖国参拝はしないが、仏教をほめたり、創価学会とは手を組んでもよいなど、なんだか一貫性がなく、無節操に見えますが、単純に、国家という政治主導の元にあると考えているからでしょう。
国家の元にある信教の自由です。靖国参拝が国際的に見て不利益ならばしないが、国内の勢力拡大に役立つならどんな宗教でも、ということでしょう。
ある意味では徹底した「マキャベリズム」で、近代国家の基本です。
なるほど小沢さん、クリスチャンにとって、いつか巨大な敵になるかも知れません。小沢さんにとって興味があるのは「国家」だけのようですから。
国家至上主義、言い悪いは別にして、神を否定した人間社会にとっては当然の結論だったのです。
小沢さんの二大政党制、型破りな大連立も、すべてはこの近代政治思想の上に堅く立ったものです。この点で、実はもっとも手強い、教会の敵ではあるのです。
うーむ‥‥
「朱基徹牧師記念の集い」プログラム - 寺田祐一牧師
2009/11/12 (Thu) 14:30:43
「お知らせ」のところに今度の日曜日に行われる「朱基徹牧師記念の集い」のプログラムを掲載しておきました。
ぜひ、ご参加ください。
ニュースから - 東江公人
2009/11/11 (Wed) 22:13:54
『民主党の小沢一郎幹事長は10日、和歌山県高野町で記者団
に「キリスト教もイスラム教も非常に排他的だ。その点仏教は
非常に心の広い度量の大きい宗教、哲学だ」と語った。弘法大
師以来の歴史がある高野山金剛峯寺を訪れ、高野山真言宗の松
長有慶管長と会談の直後。仏教のありがたさを強調するあまり
、脱線気味となった。
来年にスイスで開かれる国際会議に松長管長が出席すること
から、「欧米人に仏教の神髄を説いてやるのは非常に意義があ
る。大変うれしい」。さらには「排他的なキリスト教を背景と
した文明は今、欧米社会の行き詰まっている姿そのものだ」と
文明論にまで言及した。(本田修一)』
小沢さんらしい仏教界が民主党支援するようにとのリップサー
ビスだろう。
外国のキリスト教とかイスラム教を非難して自国の仏教を賞賛
する、ある意味では幼稚なおだてに見える。
これで仏教界がもし、喜んだら…ちょっと。
どうなんでしょうねー。
浄土真宗などはキリスト教に酷似していわゆる排他的な仏教。
過去には一向宗と呼ばれた。 どうなのか?
排他的なものが悪いと言うことが前提になっているが、本当に
そうなのか?日本にも船頭が、7人いれば山に登るという諺も
ある。
民主党も自身小沢さんがまとめなければバラバラになるのと違
うのだろうか。
カトリック信者の前総理の麻生氏に対する間接的非難なのか
もしれない。石破氏もプロテスタント信者で大臣だったしなー
彼らが、本当にキリスト教精神で政治をしていたのかという問
題もある。
ちょっと大人げない話しだ。
それにしても日本にも教会があるのに政治家(小沢氏)は見向
きもしないとは…
ほとんど政治力としては無視されているのが、日本の教会か…
これでいいのか。それで悪いのか。考えさせられてしまう。
うーむ。
「キリストの標準」 - 寺田祐一牧師
2009/11/11 (Wed) 10:06:59
今日は雨降りで寒く、家でピーナツをほうばりながらSFでも読みたい気分です。
たぶん中途半端になるでしょうが、「人間的な標準」についてもう少し書いてみましょう。
私たちは、何かと比べて(ほとんどの場合は他人ですが‥‥ )、自分を理解し把握しようとします。
昨日も書いたように、それはごく当たり前のことで、特に意識しなくても普段みんなやっていることです。自分ではそうではないと思いながらも、こころの奥底に「差別」や「軽蔑感」が潜んでいることは知っています。勿論、表面に現さなくても、「劣等感」や「妬み」があることをもです。こういうものを、よくも悪くも利用したものが「競争社会」、「自由主義社会」でしょう。最近の世界は、神様を否定して手に入れたかのように見えた、この人間の意志による「自由競争社会」の失敗と限界を示しています。「人間的な標準」が根底にある限り避けられないのは当然で、今後も、厳しい統制社会との間を揺れ動きながら進んで行くほかはないでしょう。人間の欲、まずはこれが「人間的な標準」の正体だからです。うまくおさめられている時はいいが(むしろ偽善的になっているのかも知れませんが)、それによる格差や差別の枠組み、構造の許容範囲が越えてしまうと、生き残りをかけて激しい殺戮が繰り広げられます。
これを回避するたったひとつの方法こそ、この「人間的な標準」で判断したり考えることを止めることです。パウロは、もはや自分のことさえ判断しない、裁くこともしないと言っているほどです。しかし、ではどのように判断していくのか、それは「キリストの標準」によってですと、パウロは言い切っています。
では、その「キリストの標準」とは何か、ひとことで言うのも難しいのですが、二文字熟語にすれば「福音」です。つまり、イエス・キリストの十字架と復活という「標準」から見れば、すべては違って「見よ、すべてが新しくなりました!」となると言うのです。
しかし、これを見極め、考え方や見方を変えて行くのはそう簡単ではありません。
「人間的な標準」とは実に強い力を持っており、ほとんど無意識のうちに私たちを縛りつけているからです。縛りつけていることにさえ気づかない‥‥
それは、「人間的な標準」のもうひとつの側面、というより本質かも知れませんが、その人が身につけ、すでに骨にしみつき、血となって流れている、育った背景による「標準」だからです。この点ではほとんどの人が、流行の言葉で言えばマインド・コントロール(洗脳)されており、自己判断が出来なくなっているものです。いいも悪いもない、その環境の中で生きていく限り、身につけざるを得ないものです。それを教育というのですが、これを否定されたり壊されたりしたら、自分の存在そのものが分からなくなります。おそらく現在、この問題が色濃く現れているものと思われます。何の予告も訓練もなしに、目の前の問題を解決するという名目で、次々に違った「人間的な標準」を持ち込んでしまっているからです。
これをうまく取り入れられない者は時代遅れで、素早く反応してうまく適応するのが賢いとまで言われる、実に奇妙な新しい「人間的な標準」さえ現れる始末です。効率とか能率、スキルアップなどという意味もはっきりしない言葉で、まあ、いずれ消え去る泡沫に過ぎませんが。
歴代の哲学は、このことをテーマにしながらふたつのことを考えて来たものです。すなわち「自分、及び社会(世界)の存在する意味は何か」、そしてその「自分、及び社会(世界)は存在する価値があるか」ということです。生きるべきか死ぬべきか、守るべきか壊すべきか、まさに「ホレーショの哲学ついに何等のオーソリチィーを價するものぞ」(藤村操)なのです。
「人間的な標準」の姿は、最終的に「自分が正しいと思う」ことが基準になる、と言うよりも「自分が正しいと思わされている」ことが基準になることです。自分でそう思うならまだ疑う余地もあるのですが、「思わされている」ことは反省も出来ませんから、違うものにはまったく対応出来ず、反射的に、はんこを押したような一律な反応になってしまうのです。さらにそれにスイッチが入ってしまうと、まったく無節操な驚くべき暴力集団と化してしまいます。アメリカのリンチに加わる人々、非常時に多く見られる国粋主義者、ナショナリストなどはすべてこのタイプとなるのでしょう。まさに亡国の恐ろしい人々のことです。
「人間的な標準」とは、まさしく排除の論理のことを言うのです。
「キリストの標準」 - 寺田祐一牧師
2009/11/11 (Wed) 10:07:52
少なくともパウロは、私もかつてはそんな恐ろしい誤解をしていたのですが、もう止めましたと告白しているのですね。あの時代、本当に立派で、敬服します。
「人間的な標準」とは、それをはぐくんだ環境の中でのみ通用するものです。違う「人間的な標準」に出遭った時、それを受け止め、受け容れて行くにはもうひとつ別な「標準」が必要になります。それこそが「キリストの標準」です。
ウオッチマン・ニーの「キリスト者の標準」はまだこれを出ていません。たぶん違っているのです。
コスモスの花 - 寺田祐一牧師
2009/11/10 (Tue) 13:13:43
大したこともないのに、最近少し動き回ったせいか、少し疲れて、嫌ではないのですが、これを書くのが億劫になっています。
まあ、書きたいこともたくさんあって、書き残しておきたいこともあるのですが‥‥
昔から私は根気とかきちんとするのが苦手で、いつも中途半端になっていました。牧会だけはそうならないようにと頑張っていますが、いかんせん忍耐のない者で‥‥
日本の牧会はそれしかないのに‥‥
しかし、取り合えず日記を続けて行くことにしましょう。
昨日も今日も、かろうじて早天礼拝は出て来ましたが、、ちょっと体調が崩れているため、だいぶ遅くなっています。ただ、毎朝続けて読んでいるコリント人への手紙が面白くて、それもあって頑張っているところもあります。今朝は、「朝ごとに」のところにも書いてありますが、パウロがもう「人間的な標準」で知ろうとはしないと宣言しているところです。教会におけるすべての問題はそこから出ており、コリントのクリスチャンたちに教えていました。ここでは詳しく書きませんが、この「人間的な標準」、実際にはこれがなければ自分を認識出来ない、個人的な「存在論」です。もっと言えば、「相対論」のことです。俺はあいつよりは背が高い、あの人よりは私の方が成績がいいなど、つまり、自分を何かと比較して自分を把握する、一般社会では大事な認識方法です。だから間違っていると言うことは出来ませんが、比較が難しかったり、相手が理解出来ない時などは危険なのです(分かると逆に優劣をつけたりして嫌なものですが)。相手が悪にまで見えたり、逆に直したり排除したりしたくなるからです。恐いことです‥‥
この「人間的な標準」を止めなければ、真の自分のことは勿論のこと(罪人であるということ)、イエス様までそうした標準で見てしまうと言うのです。たぶん、偶像や哲学の盛んであったギリシャのことですから、「お釈迦様より上だ」とか「下だ」とか、比較して見ていたのでしょう。これではイエス様を知ることは出来ないし、自分をも含めた存在そのものの真理を知ることは不可能です。
新しい葡萄酒は、新しい皮袋に入れなければ駄目なように、「人間的な標準」は止めてしまわなければなりません。「絶対」が見えないからです。
5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
私も勿論人のことは言えませんが、コリントの人たち、パウロのこの思い、分かったかな‥‥
さて、今日はこれから、またお絵かきの時間です。
今日は何を描きましょうか。
HP表紙にコスモスの花が咲いているのを診ましたか。
国際結婚 - 寺田祐一牧師
2009/11/09 (Mon) 09:31:58
礼拝あと、川口キリスト教会は、昨日は近くの公園へのピクニックで、私も一緒に連れて行っていただき、お昼をご一緒しました。聖徒の皆さんともゆっくりとお話しが出来てとても楽しいひとときでした。
聞いて見ると、10組以上のご夫婦が国際結婚のカップルで、教会の大半を占めていました。国は、韓国、フィリピン、中国、香港、マレーシアと、アジア系の方々が多かったのですが、勿論アメリカもあり、実に多彩な印象でした。みんな明るい方たちで楽しい教会ですが、うーん、実際に、私には難しいだろうなと思うのですが、器の大きいD.シェーファー先生ならではのお働きです。
昨日の説教テーマは、川口キリスト教会、今後の成長を考えて「神の国とその義」と題してお話ししたのですが、我が家も国際結婚ですから、その話が聞きたいとの要望が多く、次はそれをすることにしました。
これからますます増えて来ることが予想されますので、かなり大事なテーマでしょう。少なくと日本の教会にとって、国際結婚のメリットは、日本人男性の伝道において、かなり高い確率をもった伝道となっていることです。今はもう、すでに無視できない大きな働きとなっています。自分から変革出来ない日本人男性にとって、外国人の奥さんは、もっとも大きな外圧となっているようです。本人たちは大変そうですが、これはやはり神様のご計画だろうと、私は考えています。
さて、では昨日、川口キリスト教会で行った説教の要約を掲げておきましょう。
09.11.08川口 「神の国とその義」 マタイの福音書6章32節〜33節
6:31 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
6:32 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
33節の「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」は、イエス様の「山上の説教」の中でも一番中心となるべきところで、聖書の中においても頂点となるべきところです。当然様々な解釈がなされ、神学的にも色々と議論のあるところでしょう。
ただ、このイエス様のお話、だからといって、牧師、或いは神学者たちの前でなされた講義ではありません。それどころか、これを聞いていたのは、ある意味では無学な人々、この世においては落ちこぼれのような人々でした。失業、病気、争い、大きな社会不安の中でどうすればよいか分からず、路頭に迷う人々だったでしょう。イエス様が34節で「あすのことはあすが心配します」とおっしゃるのですから、明日どうなるの分からない、不安を抱えた人たちだったのです。金持ちや学者は一人もいなかったと思います。ですからイエス様は、そんな面倒なことや難しいお話しになったはずはありません。勿論内容は深いものでしたが、聞けば誰でも分かる簡単なお話しをなさったのです。
聖書の中には、確かに解釈の難しいところはありますが、少なくともイエス様が、群衆にお話しなさる部分にはそんなものはありません。種まきや漁の話であったり、宝物の話であったり、放蕩息子やよきサマリア人のように、聞けば誰でも分かるはずのものでした。イエス様のお話しを聞く時、この点を知っておくことは大事です。学歴もいらなければ、立場も名誉もいりません。どちらももっていない者には、本当にありがたいところです。
では、今日の箇所、イエス様は何を言おうとしているのでしょうか。
「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです」とあるとおり、ここに集まっているのは、ラーメンかうどんかではなく、ごく普通に、暗い世界の中で「大丈夫だろうか」と、先行きの不安から、様々な意味で心配している人々でした。そして今、私たちが一番心配していることでもあります。どこかにうまい話、お金は落ちてないだろうかと。
それに対してイエス様は、集まった人々に『「こういうものはみな、異邦人が切に求めているもの」で、あなたがたが心配するようなものではない、「天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知って」いるのだから、あなたがたが求めるべきものは別にありますよ』と言うのです。『「だから」、それが欲しかったら、まず「神の国とその義とを第一に求めなさい」、「そうすれば」そいうものは、なんと求めていないものまでも一緒に、「すべて、それに加えて」自動的に「与えられます」よ』とおっしゃるのです。何と簡単でありがたいお話しでしょうか。
「神の国とその義」 - 寺田祐一牧師
2009/11/09 (Mon) 09:34:06
ではしかし、問題は、どうすれば「神の国とその義とを第一」にしたことになるのかと言うことです。第一、「神の国」とは何で、「その義」とは何を意味するのか、これが分からなければ意味がないのもにになってしまいます。確かに、自分を捨てての献身とか殉教、地の果てにまでとか、様々なことが思い浮かぶのですが、そんな極端なことを言わなくても、当たり前にはっきりしていることがいくつかあります。
それは、イエス・キリストのみからだである教会が、まずこの地上に実現した「神の国」であることです。そして「その義」とは、勿論、聖書のみことばがその根底にあるのですが(憲法のように)、「神の国」である教会の決まり、いわば法律であることです。
私たちに、ごく普通の意味で約束されている権利や自由は、まず、自分の所属する国の法律を守り(犯罪を犯さず)、税金をきちんと納めたり、責任と義務を果たすことによって保証されるべきです。それと同じように、「神の国」の市民であるクリスチャンにも保証されるている権利があるのですが、これもまた、国である以上、果たすべき責任と義務がある訳です。そしてその具体的な責任と義務こそ、まず、今自分が所属している教会での信仰生活の仕方にかかっていることになります。
「神の国とその義」とは、まさしくこの地上における教会生活を第一にすると言うことに他なりません。
では、具体的には何を守るのでしょうか。イエス様によると、「すべて与えられ」るのですから重要です。間違ったら大変、この国の権利や恵みを受けられなくなってしまうからです。
勿論、様々なことがあるのですが、ここでは、教会生活の4本柱と呼ばれる、代表的な4っつをあげて見ましょう。あとにすべてはこれにふずいするものです。
教会生活の第一は、まずなんと言っても「礼拝」です。
教会は何をするところと聞かれたら、「クリスチャンが集まって神様へ礼拝をお捧げするところです」と答えるべきです。難しくても礼拝をきちんと守る人と守れない人では、どちらの願いを神様がお聴きくださるか、普通に考えても明らかなことです。
教会生活の第二は、「奉仕」です。
教会は、牧師や宣教師が経営しているのではなく、集まる人々の、それぞれの賜物を活かした働きによって成り立っています。お客さんではなく、むしろ四番目の「伝道」につながるものですが、そこで働く従業員のようなものです。教会員がそこで生き生きと働いているかどうか、教会の中に流れる空気が違って来ます。
教会生活の第三は、献金、特に「什一献金」の絶対厳守です。
教会も、この世に立てられたものである以上、お金は絶対不可欠なものです。そして基本的には、やはりそこに集まる人々の献金によって運営されるものです。しかし、それ以上に、この山上の説教の中にもイエス様は「6:21 あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです」と言っていますので、もっとも大事な祝福の源とも言えます。中でも什一献金は、もっとも大きな祝福と恵みの基本であると神様がおっしゃっているのですから、大事です。
教会生活の第四が、当然ですが、「伝道」です。
これについては説明の必要はないと思います。教会は、イエス・キリストの福音を宣べ伝えるため、この地上に立てられた砦です。ここで力をいただき外に出て行って福音を伝え、傷つき疲れて、戻って癒されるところなのです。
以上、少なくともこれが理解出来て守れるならば「神の国とその義を第一」にしたことをイエス様も認めてくださるはずです。あまりにも当然なことが多いので、逆に気づきにくかったかも知れません。しかし、ぜひこれを覚えて、「そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」と言うイエス様のお約束を一緒にいただいて行きましょう!
宋先生の特別賛美! - 寺田祐一牧師
2009/11/07 (Sat) 13:23:00
昨夜から先ほどまで、Fc2(サイト運営会社)が不通となっていたため、書き込みが出来ませんでした。やっと今、「朝ごとに」のところの書き込みが終わったところです。残念ながら、ここへ書くのは、ちょっと明日の準備もあって、あまり書けません。
明日は、私は川口キリスト教会へ行きますので、こちらへは我孫子聖書キリスト教会の宋均鎬先生がいらっしゃいます。友だちというのはいいもので、必要な時にはいつでも都合をつけて助けてくれます。
宋均鎬先生は明日、説教のあとにもまた特別賛美を捧げてくださいますが、一流の声楽家であったので、私もお聴きしたいのですが、残念ながら聴けませんね。曲目は「讃美歌294(御恵み豊けき主の手に引かれて)」です。
ぜひ、明日の礼拝、午前10時からですが、いらしてみませんか!
私は明日、川口キリスト教会で、「神の国とその義」と題してお話しします。まだ準備が十分出来ていませんので、今悩み中です。
まあ、テーマとしては、私たちの信仰生活において、具体的に「神の国」は何を意味するのか、「その義」とは何なのかと言うことのです。そしてイエス様のご命令は、それを「第一としなさい」と言うものですが、どうすれば第一にしたことになるのかということです。
さて、皆さんはいかがお考えですか。
知りたい方は、明日川口キリスト教会までお出でください。午前10時半からですが、住所や場所など、詳しいことは教会の名前で検索をするとすぐに出て来ます。
こちらの方もお待ちしています。
さて、ではこれからこころ静かにして準備します。
ああ、昨日の区域ですが、美味しい野菜炒め、濃厚なスープ、青首大根と豚のバラ肉を時間をかけてたいたもの、そして若鶏の醤油煮でした!
やはり食べ過ぎて、その日はそれ一食、今やっとお腹が落ちつて来たほどです。
残ったものを少しいただきましょうか。
では明日、お待ちしていますよ!
FridayNight - 寺田祐一牧師
2009/11/06 (Fri) 20:58:44
今日は区域のあと、ちょっと出かけて、少し疲れてしまい、休んでしまいました。
今、9時からのFridayNightのために、やっと出て来たところです。このFridayNight、ここ何年かはほとんど一人なのですが、今日は、今来て見ると、一人、すでにいらして待っていました。それで、これから久しぶりに賛美をして始めるところです。
今日はあまり書けませんでしたが、これで失礼しましょう。
いつも朝でお早うございますですが、今は「お休みなさい」ですね。